フールのサブブログ

PFCS 用のサブブログです。黒髪ロング成分はあまり含まれておりません。

Self sacrifice after birthday まとめ

1



 ルビネルが約束の時間になってもこない。因みにデートではない。診療時刻だ。
 腕を組ながら寡黙に待つが、いっこうに来る気配がない。彼女は一度だって私との待ち合わせに遅れたことはなかった。
 ペストマスクが私の眠気に合わせてコクンッ、コクンッと揺れる。これ以上は待つだけ無駄か。
 私は不気味に思い、彼女の学校に行き、とある人物を待ち伏せした。

 私が待ち伏せしていた人物はあっさりと姿を表した。単なる教師と生徒という関係を越えて、ルビネルと恋愛関係にあると噂されている。

 ペストマスクをコツコツと叩き、私が会釈する。タニカワ教授は「あなたがルビネルのドクターですか?」と聞いてきた。ルビネルが時間に間に合わなかった時の連絡先として、本人から聞かされていたのだ。

 タニカワ教授にルビネルの所在を聞いてみる。
 知的な顔をした教授は眉間にシワを寄せた。彼が言うにはルビネルは二十歳の誕生日を迎えた頃から行方不明、とのことだった。国の捜索も入っているが発見されていない。
 一応、長期間出掛ける旨が書かれている手紙が彼女の家から発見されたらしいが、肝心の行き先がかかれていなかったそうだ。
 ……厄介なことになった。捜索に協力すると伝えると、そういえばとタニカワ教授は呟いた。

 「タミューサ村に社会科見学に行かせてからルビネルの様子がおかしかった。感情を見せなくなったんです。何かよほどショックなことがあったらしい」

 「ショックなことか……」

 私はコホンと咳払いをすると、タニカワ教授に聞いた。

 「あなたは?あなたには何かありませんでしたか」

 タニカワ教授は、「いや……何も」とだけ答えた。

 手紙と聞いて、ふと思い出した。ルビネルはインクの入ったペン━━確か一ミリリットル以上だったか━━をサイコキネシスが如く自在に操れる能力を持っていた。
 その手紙も能力を使って書かれたのだろうか。それとも直筆で丁寧に買いたものなのか。どうでもいい疑問が私の頭をよぎった。


 私はひとまず隠れ家に帰り、翌日に商売仲間に会いに行った。
 「老人」と呼ばれている、焦げ茶色のスーツに身を包んだ精霊は、闇社会の中でも相当の強者だと聞く。裏の世界を知り尽くしている彼は、ニヤリと笑うと意外なことにこう答えた。

 「金さえ払えば教えてあげますぜ?旦那」

 私はなけなしの金を老人に手渡した。
 彼女は私の体の秘密を呪詛に関する知識で推理していた。その情報が漏れると大変不味い。もっともそれ以上に私が彼女のことを気に入っている、というのもあるが。

 老人は焦げ茶色のスーツを整え、帽子を深く被ると「ついてきな」と、指図してきた。

 外に留まっていた、黒い高級車に案内される。やたらと座り心地のいいイスにデカイ体をどうにか押し込めると、隣の席で「かわいいですぜ、旦那」と老人が笑った。

 運転席の黒スーツの男がアクセルを踏むと、車は発進する。

 数十分後、車からおりると、極端に高級そうな建物が目の前にそびえ立っていた。ガラスの扉の中は金色とそれに近い色で装飾された、さながら王宮のようだった。外から見ただけでも、恐ろしく高そうな花瓶だとか、あからさまに綺麗すぎる絵とかが置かれている。
 明らかに私の黒いコートと茶色いペストマスクに不釣り合いだ。

 「さあ、行きましょう」

 竜人でも優々と通れるくらいばかでかいガラス張りの自動ドアを潜り抜け、ガードマンに加え、やたらと着飾ったお姉さんの間を通る。どうやら建物のエントランスらしい。

 受付らしきところを顔パスで通り、老人は突き当たりのエレベーターに入った。

 「この建物は……?」

 私が呟くと老人は渋い笑顔を私に向けた。

 「そう、高級キャバクラですぜ」
 「なぜこんな建物に案内した?」

 老人は答えずに最上階のボタンを押した。

 「…お代は?」
 「俺がオーナーですから」

 美しすぎる夜景と、キャバクラとは思えぬくらい高級感溢れるテーブル。明らかに年収数百ドレスタニアドルを越している男達が、美女をはべらせていた。
 老人はサービスと称して各テーブルに高級ワインをおごると、私をつれて一番奥の扉へと向かった。

 VIPルームが連なる廊下に出た。ただでさえ私の全財産をはたいても出られなそうにないこの店のなかの、さらに特等席である。人生でこんなところに入れる日が来るとは……
 それにしてもなぜこんなところに老人は案内したんだ?

 「さあ、つきましたぜ。指名はもうしてありやす」

 扉を恐る恐る開けると、白いガウンをまとった少女が窓の外を向いていた。顔はこちらからではよく見えない。ガウンに滴る黒髪は絹に負けぬほど美しく輝いていた。
 二人用とは思えない部屋に私は一本足を踏み入れる。絨毯の踏み心地が半端ではない快適さだ。

 「いらっしゃい?お客様」

 表情があどけない。ここに存在する意味がわからない。ガラスのテーブルにおかれたワインに対して、彼女は明らかに不釣り合いだった。

 「ルビネル!なぜこんなところにいる?!」

 疑問は恐ろしいほど浮かんできたが、何から質問すればいいのかわからない。妖艶に微笑む少女になんと声をかければいいのやら。

 「フッ……フッ……フッ!」

 椅子に座る少女、ガラスのテーブル、数メートル離れて私と老人。それがこの部屋の全てだった。
 さりげなく老人が退路を塞いでいるのが気になる。

 「お金が欲しかったのよ。短期間に、大量に、ね」

 「どうしてそんなに金を欲した?」

 「私には救わなければならない人がいるの。手遅れになる前に。そのためには武器が必要でね……」

 私は声を荒くして言った。

 「ばかな。そんなに友達が大変な状況であれば国や冒険者に頼めば……」

 「国の兵士じゃ役に立たない。無駄死によ。それに私の個人的な問題でもあるわ。どうしても私が決着をつけなくちゃならないの。だからドクター、貴方にも力を貸してほしい。私をあなたの能力を使って、強くしてほしいの」

 「断る」

 そういった瞬間、老人がライフル銃を取り出した。

 「旦那、それじゃあ困るんです。ね、患者さんの要望に出来るかぎり沿うのも医者の仕事でしょう?」

 こいつら!グルか!

 「私の肉体を強化手術してほしい。今のままじゃ、……勝てない」

 部屋のなかに黒い服の男がなだれ込んだ。

 将来私が老人に払う金のことを考慮すると、とてもじゃないかぎり老人は私を裏切らないはずだ。つまり、老人がルビネルを助けると、私の生涯払う金以上の損失を防げるか、または利益を被るのだ。

 「二十歳に成り立ての健全な少女の肉体を人体改造しろと?ふざけるな!私のメスはそんなことに使うものではない」

 「すいやせん、これも商売なんで」

 にかっとはにかむ老人の後ろで、数十人のガードマンが銃を向けてきた。

 ひとまず逃げないとまずい。
 フラッシュバンを起動させようとしたとき気づいた。黒い服の男は全員遮光グラスと高級耳栓をつけていることに。老人もいつの間にかそれをつけている。

 「逃げようとしても無駄ですぜ、旦那」

 仕方なく煙幕を起動させ、ワイヤーを天井に突き刺した。体を勢いよく引き上げると、その間下を大量のゴム弾が通り抜ける。さらに壁を突き破って隣の部屋からも銃弾が飛んできた。

 天井に逃げていなかったら即、気絶だった。ミノムシのように身を縮めてぶら下がったまま耐える。

 天井に手足が触れないように気を付けなければ。どうせ老人のことだ。地雷が仕掛けられている。
 私は下半身を振り子のように揺らして、どうにか跳ぶと、銃撃で穴の空いた壁を突き破り隣の部屋に突入した
 ……まさか、隣の部屋がワイヤートラップで埋め尽くされており、全身がんじがらめにされた揚げ句、切り裂かれるとは思ってなかったが。

 ワイヤーに絡まり宙ずりになった私に、老人の部下が大量の麻酔ゴム弾を打ち込んでいく。そのたびにだらしなく私の体が揺れた。

 どうやら私やルビネルがいた部屋の壁の裏側に、トラップが仕掛けられていたらしい。私がぶち破った壁とは反対側の壁に老人の手下がいることを察するに、最初から私の動きは全てお見通しだったようだ。化け物め。

 だんだんと意識が遠ざかり、体の力が抜けて行く。

 ルビネルはというと、窓から外に出たらしく、夜空に浮かんでいた。ボールペンを靴に取り付けることで、宙に浮けるらしい。攻撃の当たらない場所で高みの見物を決め込んでいる。

 状況すら理解出来ぬまま、私の意識は闇へ葬り去られて行く。

 最後の力を振り絞り、ルビネルの顔を見た。虚ろな目で私を見ている。とても学生の瞳とは思えない。

 彼女に何があったと言うのか。恐ろしいほどの荒廃が彼女を襲った、それだけは事実のような気がした。

 視界の端に二人が見えた。


 「さすがね。オールドマン」

 「俺をみくびっちゃ困りますぜ?」


 少女の服を整えながら、老人は笑った。


 「あとは手はず通りお願い出来るかしら」

 「ええ。お嬢が奴をどうにかしなけりゃ、俺たちのお先は真っ暗です。そして、それを出来るのは残念ながらお嬢しかいねぇ」




Self sacrifice after birthday 2




 私は心地よいベッドの上で目覚めた。下着を含め、全ての物が剥ぎ取られていた。種も仕掛けもないパンツとガウン、それが今の私の持ち物の全てだ。ただ、二メートルの身長を持つ自分の体は無事だった。


 「旦那の体、不気味で仕方がなかったですぜ?」

 「観賞用ではないからな」

 私は自分の体を見て自重げに笑う

 「さて、強化手術に必要な物を教えてくださいませんかね?右腎臓の変わりに入っていた閃光爆音菅も丁寧に抜かせて頂やしたぜ?」


 私は右腰のあたりをさすってから、舌打ちをする。


 「わかったもう抵抗はしない。ただ、手術に必要な物品は私の研究室にある。取りに行きたい」

 「じゃあ、ここにある最低限の衣類だけ着てくだせぇ」


 私は布製の服だけ身に付けて、数十人の見張り役と共にエルドラン国のとある墓地へと向かった。私の地下研究所のうち一つは納骨堂に直結しており、墓から入る。

 私は老人の監視している中、墓を暴き、薬品保管庫へと続く、隠し階段を降りた。薬品棚から必要最低限の薬品を入手する。

 私がその後つれられたのは老人が管轄するエリアにある病院だった。一般市民にまぎれ、当然のように受け付けを通り抜けると、霊安室に連れられた。
 そこに幽霊が如くルビネルがたたずんでいた。白いワンピースはこの場所にお似合いだが……。


 「用意はできたの?ドクター」

 「ああ」


 こうなっては、老人に逆らっても無駄なので正直に説明をする。


 「鬼に存在する強化遺伝子を直接移植する。ただ、適正が合うかどうかは移植してみなければわからない。成功率は六割といったところだろう」


 ルビネルは一切の表情を捨て去ったような無表情でぼそりと言った


 「それで、成功すれば私は強くなれるの?」

 「ああ。鬼遺伝子はどれだけの量の遺伝情報を持つかによって、その発現の度合いが変わってくる。もっともたる例が紫電海賊団の忌刃だ。恐ろしい怪力と力の持ち主だろう?あれは鬼遺伝子が強く発現したために、肉体が鬼から見ても異質とも言うべきほど強化された結果だ」


 私は霊安室に横たわるご遺体をちらりと見ると、大きくため息をついた。


 「ただし、肉体強化してから一週間のピークの後、肉体が力に耐えられず自己融解する。つまりお前の言う『敵』と戦い初めてから、一週間以内に私の下へ戻り、再手術をしなければ死ぬ」


 老人は私の肩に手を置くと冷徹にいい放った。


 「じゃあ、旦那の気持ちが変わらないうちに、こちらにサインを」


 私は思わず首を左右に振った。


 「お前に情けはないのか、老人!」

 「そりゃ、……嫌ですよ。胸が痛む。止めたい気持ちもある。将来有望な奴を死ににいかせるなんざ、正気の沙汰じゃねぇ。でも、無理なんですよ。俺たちはお嬢にかけるしかないんです」


 老人は茶色い帽子を深くかぶり直した


 「私の戦う相手は少なくとも生物兵器と同等かそれ以上の存在なの」


 ルビネルは無表情の中に一点の陰りを見せた。どうやら『相手』に対して個人的な因縁があるらしい。


 「ルビネルは奴に呼び掛けて唯一反応を見せた存在なんです。そのとき、ルビネルのペンがほんのちょっぴりだが、奴に怪我をおわせた」


 私は今日何度目かのため息をついた。


 「それだけで、それだけで……ルビネルにかけるのか?」

 「遭遇したとされる俺の部下は全滅していやす。強さに関係なくですぜ?不意打ちされた訳でもない。真っ正面から好条件でうちの精鋭がそいつに挑み、完膚なきまでにやられた」


 苦虫を噛んだような表情をした。よほど悲惨なやられ方をしたらしい。


 「うちらにはもはやどうすることもできやせん。ここまで来ると天災と同レベル、出会ったら最後です。そんな理不尽を許してはおけねぇ」


 ルビネルはせがむように私にすり寄ってきた。


 「お願い。私は止めなければならないの。あれ以上酷いことをさせたくない」


 私はルビネルの両肩を持つと怒鳴った。


 「なぜ、命を投げ捨てようとする!成功率は六割だと言ったはずだ。成功しても死ぬ可能性の方が高いということは充分わかっただろう。何より、完璧に手術が成功したとしても、老人の手におえないような奴に勝てるとは思えん!」

 「無謀だと言うことはわかってる。でも、私はいかなくちゃいけない。これからあの人によって、もっと沢山の人が殺されてしまう」

 「なぜだ!なぜそんなに『あの人』に拘る!」

 「それは……」

 ルビネルは大きく息を吸い込むと、目一杯の声量で私に思いをぶちまけた。
 この場所で、この状況で、ルビネルが愛する人への切実な思いを告白してきた時の衝撃は想像を絶するものだった。
 私は脳天を殴られたかのような強いショックを受けた。石化の魔術を受けたかのように全身が硬直してしまった。
 その言葉に対する返答を私は持っていなかった。

 死んだ恋人の体を手術し、身に纏うという狂気とも言える手術を行った私には、彼女に口出しする権利はもうなかったのだ。
 愛しの人をこの世に再び再現するために、百ではおさまらない人数を殺し、成仏させてきたのは紛れもない私自身だ。
 愛する人のためなら何でも出来る、ということを自分で証明してしまっている。今の彼女を誰にも止めることはできない。


 私はそれでも、数時間にわたって粘ったが、折れることになった。ただ、手術自体を行うのは少し後にするということに決まった。その間、私は老人に命を握られたまま過ごすこととなった。




Self sacrifice after birthday 3




 六人用の広い机の上に乱雑に広げられた本の山。ひとりでに動き、器用に本のページをめくりつつ、必要な箇所を市販のノートに書き写す17本のボールペン。そして、そのボールペンたちに向かって指揮者のように指示を出す少女。
 本の内容は公に出来ない禁術や、人道を外れた研究成果。知ってはならない世界の裏側についてなど。カルマ帝国を壊滅させた、ドラゴンの召喚ですら、ここにある文献で再現可能である。
 少女は本を棚から取り出しては机の上に広げ、ボールペンを操る力によって、高速でまとめノートを作っていた。

 私はそんな少女を本棚の狭間から見ていた。本来であればこの図書館は立ち入り禁止であるが、老人とルビネルが『とある人物』を説得してくれたお陰で、私も入ることが出来た。
 私はそれに感謝しつつ、ルビネルの手術の成功率を少しでも高めるために、手当たり次第、生体や呪詛についての禁書を開いては閉じていた。
 ……と、噂をすれば彼が来た。


 「勉強熱心なものだな、ルビネル。何か聞きたいことはあるか?」


 セミロングの髪の毛が額の包帯に触れている。整った顔に鋭すぎる眼光を宿し、ルビネルを見据える。
 ルビネルは黒い長髪を揺らし、振り向いた。男を見た瞬間、ルビネルの険しかった表情が本の少し緩む。


 「ガーナ様、ありがとうございます。まさに今聞きに行こうとしていた所です」


 ルビネルが一礼すると、ボールペンも一斉に静止し、ガーナの向きに傾いた。
 ガーナはドレスタニアの元国王であり、ここドレスタニア図書館の鍵を管理している。
 ガーナは私に目を向けたが、私が気にするな、というジェスチャーをすると、再びルビネルと向き合った。

 「私には三つほど質問があります。一つめは、どこにいるかもわからない人を探す方法についてです」

 ルビネルは千里眼の呪詛についてのメモ書きを指差した。それを見たガーナは、静かに頷くと語りはじめた。

 「人捜しの能力…。これは概念的方法であれば、大した力を使わずとも可能だ。明確な位置を探ることはこの世界においては不可能だろうが、信仰による占いや手がかりを辿る力に長けたものならばヒントとして得る事は容易い。我が国にも占いを行える者がいる。訪ねるといいだろう」

 ルビネルは軽く会釈すると次の質問を投げ掛ける。

 「では、次の質問を。ディランやサバトに乗っ取られた……と思われる人物を救う方法はあるのですか?」

 「乗っ取られた人物、これはその者により異なる。場合によっては引き剥がせるだろうが、引き剥がすどころか既に死を迎えている場合もあるだろうな。お捜しの者の生態がわからなくてはその可否もわからぬ」

 ガーナの言葉を聞き、決意したように最後の質問をいい放った。

 「では、そういった異次元の力を持つ者共と渡り合うだけの力を手に入れる方法はあるのですか?」

 「渡り合う力、か。それがあるならば問題は起きない。我が弟の持つ剣であれば時空ごと封印することができるが、例え瞬きすら行えぬ空間に閉じ込めても、時間的封印は、その分、彼らに力を得る刻が与えられるだけである」

 サバトやディラン、といった相手とはそもそも渡り合う術がない、という残酷な事実だった。

 「あり得ない進化をするほどの力をもつサバトのような相手には、永続的封印が最も愚かな行動であることは明白だ。故に、甦ることを前提に繰り返し殺すことを我が国では選択している」

 ルビネルは唇を噛み、唸った。

 「私がわかるのはディランかなにかに乗っ取られている、という事実だけ……。対処法もわからない。封印しようにも仮に敵がサバトだった場合逆効果、となると殺すしか方法はないのですね……」

 「若い頃の私ならば迷うことなく手にかけるが、そういう時代でもない。『必ず喰らいつくす呪詛』と公言した不死者から未だ生き延びている例もある」

 腹を少し見せる。想像を絶する痛みを伴うであろう、おぞましい傷が刻まれていた。全体を見ずともその壮絶さは充分ルビネルに伝わった。
 同時にガーナが言う、人の可能性というものの片鱗も感じたのだった。敵がどんなに強大で恐ろしいものであろうが、それを乗り越えるだけの力を人は秘めている。それをガーナは身をもって示していた。

 「この世界の者を甘く見ているということだ。
君だけの問題ではない。私もサバト相手ならば剣を抜こう」

 ルビネルはこの図書館に初めてきたとき以来、はじめて笑顔を見せた。

 「心強いお言葉、ありがとうございます。ぜひ、お助け願います」

 私はそんな彼女に一抹の不安を抱えつつ、次の禁書を取り出した。



4



 「久しぶりだな」

 図書館の地下五階。本来人が立ち入ることのない埃臭い空間の、更に奥の机にもたれ掛かる私に、図々しく話しかけるガーナ。
 ガーナ『王』が私のロングコートの服のシワをみてガーナは一言呟いた。

 「ほとんど丸腰か……取り上げられたな。私が利用したときよりも深刻に見えるが」

 「あまり話しかけないでもらえるか。鬼畜め」

 ばつが悪そうな小さく低い声で拒絶を示すと、ガーナは微笑しながら向かいに腰をおろした。
 裏社会の人間から見たらドレスタニアを支配しているのは彼だ。一般には元国王と言われているが、実際には裏から国を牛耳っている。

 「まぁそう言うな、単純な世間話だ。君にとっては余計な話かもしれんがね」

 無言で向き合う解剖鬼とガーナ。感情を隠し通すマスクに対し、感情を読み取らせない鋭く紅い目。お互いに察する、牽制の態度。先に沈黙を破ったのは、ガーナであった。

 「死ぬのか、あの子は」

 眉一つ動かすこともなく、悲しい顔も見せず、苦しい声もあげない冷徹非道な『王』の言葉。しかし、死地を巡った解剖鬼だからこそ察する、王の気遣い。
 早い話が、状況を把握し即座に現実をうけとめ、ルビネルの未来が悪い結果になることを既に『覚悟』している態度である。だからこそ、ガーナは解剖鬼に話しかけに来たのだ。

 「……決まった訳じゃない」

 即答は出来なかった。だが、できる限りの事をする、と意志を見せることはできた。癪に障る『王』に向けた抵抗の意志。
 可能性は決めつけるものでは無い。だからこそ、即答できない自分にほんの少しだけ苛立った。実際に経験則から判断すると、失敗する可能性の方が高い。

 「そうか」

 私のわずかに震える握りこんだ拳を見て、ガーナはにこりと微笑んだ。ふと、手元の資料に目を落とす。サバトの記録…歴史…考察…。自身が戦うわけでもない相手の弱点や欠陥を探ろうと、自然に読んでいたものがそれらであった。
 心のどこかで、ルビネルが負ける前提で調べていたことに気づく。

 「現実を受け止めるということは、希望を産み出す手段である。やるべき事をやるしかないぞ」

 ガーナは机に紙束を置いた。

 「これは……?」

 「私の父親が母に施してきた、遺伝子操作の実験記録だ。図書館の記録ではなく、私物だ。より分かりやすい言い方をすれば…我が弟の設計図だよ」

 一切感情を見せなかったガーナが、明らかに忌々しい物を見る顔つきで答えた。

 「燃やすつもりだったが、何かの役に立ちそうなら君に預ける」

 そう告げると、ガーナは出口へ戻っていった。

 「『設計図』か、これがガーナ王の解釈なのか?」

 私は資料を手に取りパラパラとめくる。わずかな枚数目を通しただけで、ガーナの表情の理由を察した。なるほど、これを研究した奴は、少なくとも私よりは外道らしい。
 私はあくまで人を成仏させたあと、解剖して医学データを得るのが仕事だ。このような狂気に満ちた人体実験は行っていない。

 「なるほど、興味深い」

 だから、手術の参考になるデータが手元ににほとんど存在しないのだ。理論上は手術可能とはいっても、前例のない手術は高確率で失敗する。例えば数十年前、とある病院で理論上可能とされ、実行に移された臓器移植。だが、拒絶反応に関して、当時は存在すら知られておらず、患者は数日でお亡くなりになった。
 ガーナ王が渡してくれたものは、それを補完する、貴重な研究データだ。特に薬剤による詳細な影響や、副作用に関しての細かい記述は非常にありがたい。

 ガーナ王にしては随分と気のきいたプレゼントだ。ペストマスクの位置を調整すると、ルビネルにきびすを返し、図書館を後にした。



5



 私はドレスタニアの噴水で、煙管に火を灯す。煙が沸き立つ筒に口を着ける。気管支が煙によってあぶられゴホゴホと蒸せた。知り合いが旨そうに吸っているのを見て真似してみたが、やはり私には合わないらしい。
 こんな奇妙なことをするのも過度のストレスから一瞬でも逃げたいからだった。

 「ゴホッゴホッ……」

 私は建物の影で蒸せつつ、ドレスタニアの広場にある噴水を覗いていた。いつも見ている裏通りの噴水とは違い、コケもボウフラも沸いていない澄んだ噴水だった。
 そこに黒いワンピースに身を包んだ少女と、貴族服に身を包んだ女性が仲睦まじく腰かけている。手に持っているのはリンゴ飴だろうか。

 「ゼェ……ヒュー……おっ収まった……」

 彼女たちの脇に紙袋が置かれている。中からのぞいているのは洋服か?それともかわいいぬいぐるみか?
 二人ともにこにこしながら話続けている。時々ほっぺに触れたり、足をさわりあったりと、何やら危なげな雰囲気を醸し出しているのは私の気のせいだろうか。

 「煙草なんか吸うもんじゃないか……」

 煙管をポケットにしまう。
 彼女らがどこかに移動する。あの通りの先ということはカフェか……。
 いっこうに会話の止まる気配がない。何であそこまで高速に絶え間なく話続けることが出来るのかわからない。憧れはするが。
 「うんうん」と、激しく外交官の言葉にうなずく少女。得意気になって話しているのが、あのエリーゼさんだとは思えない。
 エリーゼ外交官の言葉にはしゃいで、リンゴ飴を落とすルビネルはとても可愛らしい。

 エリーゼ外交官が自然かつ優美な動作でルビネルの手をとった。カフェまで先導していく。エリーゼ外交官の顔がきらきら輝いて見える。これが外交官のシックスセンスか?そして、なぜそこで顔を赤らめるルビネル!

 カフェに入ると、私から二人は見えなくなってしまった。

 キャピキャピ話をし続ける二人を見守るのはとてもつらかった。本来であれば、あれがルビネルの姿なのだ。

 霊安室で遺体と変わらぬ無表情で、淡々と自分の死に場所について語るのがルビネルだとは決して思わない。

 私は白昼のドレスタニアでため息をついた。


 「何でこんなことになった」


 以前、ルビネルは奴と戦ったことがあったらしい。そして、十数人の仲間と共に瀕死まで追い込んだ、とも。私はその話を軽く流していたが、図書館で読んだ資料のなかに、それについての記述があった。

 強大な力をもつ者を倒したとき、その『力』が放出され、近くにいた人にこびりつくことがあるらしい。その人は『力』に暴露され続けることになる。『力』に常にさらされた体はそのうち『力』に対して耐性を持つ。
 ワクチン接種の原理に似ている。体は病気にかかるとその病原体に対しての抵抗力を作る。それを利用し、弱毒化した病原体を注射することで、実際に病気にかからなくても体の中でその病原体に対する免疫ができるのだ。
 『奴の力』がこびりつき、あらかじめ暴露され続けた結果、ルビネルは奴の能力に対する耐性を獲得したのだ。だから、老人の部下たちと共に、奴と戦ったときも、彼女だけは生き残ることが出来た。

 奴の能力は老人でもかなわなかったことから、非常に強力であることが予想される。それに耐性があるというのは、すさまじい武器だ。

 力がこびりついても、耐性ができるにはその量や質、そして個人差が大きく関与する。ルビネルが奴への耐性を得たのは不幸中の不幸なのだ。

 奴を打ち倒すにはルビネル以外、適任がいない。


 「何度考えても同じか」


 カフェからルビネルとエリーゼ外交官が出てきた。相変わらず仲睦まじく話している。

 なぜあんな子がこんな使命を背負わなければいけないのだろうか。変われるのなら変わってやりたいが、それが出来ないのは私が一番よくわかっている。

 私は本日何度目かのため息をついた。自分の無力さを呪う。まあいい、いつもと同じことだ。

 私に出来ることをしよう。




6





 ガーナ王がドレスタニアの一流の占い師に聞いたところ、ルビネルの探す『人』は今日から丁度一ヶ月後に、とある場所に行くことで出会えるらしい。占い師曰く、『三本の腕のうち、最初の一本があった場所』と言ったそうだが、私にはなんのことかさっぱりだった。
 だが、ルビネルは一度その場所に言ったことがあるらしくピタリと場所を言い当てた。

 占い師の言葉で決戦の日を特定した私たちはその日までの計画をたてた。

 主に稽古についての計画だ。





 ドレスタニア城の一室でガーナ王とルビネルが向かい合っていた。私はそれを腕を組み壁に寄りかかりつつ眺めている。
 ルビネルはサポーターをつけた右拳を大きく振りかぶると、ガーナ王に向かって殴りかかる。それに対してガーナは足を一歩引き上体を左にひねり、脇を閉め、肘を軽く曲げつつ拳を付きだす。
 ルビネルの力のこもった拳はガーナ王の腕に受け流され、あっさりとかわされてしまった。前のめりになったルビネルの足を、ガーナが足さきを使って軽く引き寄せると、ルビネルはいとも簡単にすっころんでしまった。

 「拳は必ず最短距離でつき出さなければならない。振りかぶるなど愚の骨頂だ」

 ガーナは右拳を腰まで引くと、しゅっとジャブを極めた。脇を締め、途中まで力を抜きつつ前に拳をつきだし、最後に腕の筋肉を緊張させ極める。そして極めたと意識した時にはすでに力を抜いて次の動作に繋げられるように構える。最低限の力で最高最速の拳撃を繰り出したのだ。あまりの合理さに恐怖を覚える。

 「さすがです。ガーナの旦那」

 隣で見ていた老人がニヤリと笑った。
 私たち三人は決戦を前にしたルビネルに武術指導をしていた。鬼の遺伝子を移植すれば格闘戦も可能になる。ルビネルは既存の戦術であるボールペンを操る呪詛に加え、格闘も出来るようになる。だが、紛いなりにも格闘術を身に付けておかなければそれも宝の持ち腐れだ。そこで、私たちはルビネルにあれこれ手解きしているのだった。

 「解剖鬼、お手本に相手をしてくれるか?」

 私は下がるルビネルと入れ替わる形で静かにガーナ王と向き合った。

 「かかってこい」

 「怪我をしても知らんぞ?」

 私は訓練用の木製の短刀を取り出すと構えた。ガーナ対して慎重に距離を詰めていく。ガーナ王は時々踏み込んで牽制をかけ挑発をしてくるが、決して私の射程に入ってこようとしない。
 私は見切りをつけ一気に踏み込んで短刀を振った。矢継ぎ早に斬撃を繰り出していくも、突如としてガーナが繰り出した小石によって優劣が決まった。
 攻撃に集中して防御がおろそかになった私は、無理に小石をさばいたため懐ががら空きになった。決してガーナの動きは早くなかったものの無駄がなくあっさりと私の腹に一撃を食らわせた。
 ルビネルがガーナに向けて拍手を送った。

 「体の使い方次第で凡人でも化け物に勝てるのだ。さあ、次だ。ルビネル」

 私はうめきながら「あんたが化け物だろうが」とぼそりと呟いた。
 老人に聞こえたらしく意地悪な笑みをこちらに向けてくる。悪童か、お前は。

 ガーナの真似をして必死に拳のからうちをするルビネル。あれほど動ければ将来は有望だろう。いいや、有望だったというべきか。

 ルビネルは汗を頬に滴らせながらガーナ王と打ち合う。りりしく健康的で美しい横顔が私の気持ちをさらに暗くした。

 「そうだ。それでいい」

 「はい!ありがとうございますっ!」

 ハキハキとした声はとても一ヶ月後に死ににいく者とは思えない。私の知る余命一ヶ月の人は、あのように目を輝かせたりはしなかった。ただただ死の恐怖に怯え、私に亡者のごとく泣きついてくる。
 ルビネルは違う。本人が死にたい訳ではない。死に値するような罪もない。誰に憎まれている訳でもない。将来有望で、未来ある若者だ。私はそんな人に対して、死を伴う危険な手術をした上で想像を絶する苦痛をあたえ、死地に送り出すことなど望んではいない。



 「随分と暗い顔をしているようじゃの」



 腹を抱える私に、ウェディングドレスを着た少女が話しかけてきた。銀髪を揺らめかせ不敵に微笑んでいる。
 私はその姿に戦慄し思わず後ずさった。老人がすぐそばでゲラゲラと笑い声をたてた。焦げ茶の帽子がずり落ちそうになるほどだ。

 「滑稽ですぜ。旦那ぁ」

 私は老人の言葉を無視して彼女に話しかけた。彼女の背丈は私の身長の大体半分ちょっとしかない。確かに滑稽な光景ではある。

 「ばっばかな、なぜお前がここに?!」

 「こやつに話しかけられてのぉ。強い輩と戦えると聞いて見にきたわけじゃ。ちと、早すぎたがのぉ」

 どうやら老人が強化後のルビネルの最終テストとしてつれてきたらしい。セレア・エアリス。液体金属の体をもつアルファ(金属生命体)である。私は以前、他者に乗っ取られたこいつに半殺しにされたのだ。それ以来ウェディングドレスを見ると身構えてしまう。


 「なるほど、なかなかいい感覚をしておるのぉ」

 「ああ。だがそれだけではない。約一ヶ月後、彼女に強化手術を行う」

 私はぶっきらぼうにそう答えた。

 「お主がか。意外じゃのお。そこで笑っている奴にでも脅されたか?」

 「そうです。俺が脅しやした。そうすりゃ旦那も言い訳できるでしょう?それに、あのお嬢さんの決意は本物だ。俺は惚れたんですよ、あの芯の強さにね?

 ルビネルはガーナに対して必死に拳や蹴りを放っている。先程のアドバイスが効いたのか、かなり正拳付きの精度が上がっている。
 ガーナがセレアに気づいた。が、特に何事もなかったかのようにルビネルの攻撃をいなした。セレアに関しては恐らく現ドレスタニア国王であるショコラから聞いていたのだろう。

 私は老人に対してため息をついた。

 「それでも成功率六割の上に、成功しても戦闘後に再手術しなければ寿命が一週間になるような殺人手術をやるのは気が引けるがな。ガーナと言い、お前と言い、彼女の意思と宿命を尊重するのはわかるがちょっとは情けを……」

 「敵にしろ味方にしろ情けをかけているようでは『やつ』に勝てんぞ?」

 私は目を見開いてエアリスを見つめた。ドレスについた埃をポンポンと払うとエアリスは続けた。

 「わらわもあやつの存在に気づいておる。あんまりにも強大な呪詛であったからのぉ。そこでどうしようか考えていたところ、そこのジジイを知ったのじゃ。お互いあやつを止める、という共通の目標のもと、わらわは同盟を結んだ」

 「ルビネルが負けたときの保険ですぜ」

 私は少しうつむきペストマスクを撫でる。一瞬、脳裏に血まみれになって地面に突っ伏すルビネルの像が浮かんだ。

 「ルビネルが負けたときセレアがあいつの相手をすると」

 セレアは幼すぎる顔にシワを寄せた。まるで機嫌を損ねた幼子のようだ。だが、その口から放たれる言葉にはしっかりとした重みがある。

 「いいや、わらわでは勝てぬ。精々できることはお主らが逃げるまでの時間稼ぎじゃ」

 かつて十数人の英雄と対決し、生き残った猛者の容赦ない一言だった。

 「おっと時間じゃ。また後日会おうぞ。恩人よ」

 そう言ってセレアは行ってしまった。思わず私は首を左右に振った。セレアが勝てない相手とはいったいどんな奴なんだ。邪神か何かだろうか。

 「全く……自由気ままなガキですねぇ」

 その数十秒後ショコラ王の笑い声が王宮に響き渡ったが私は耳を塞いでやり過ごした。


 決戦を一ヶ月後にそなえ、私たち三人でルビネルを徹底的に鍛え上げた。もともとルビネルに格闘に心得があったのもあり、みるみるうちにルビネルは上達していった。

 私は彼女のひたむきな姿勢を見て、ますます強化手術に対して反感を抱くようになった。しかし同時にルビネルの必死さにも心を打たれた。彼女は命を捨ててでも恋人を止めたいのだ。

 私にはもう、何が正しくて何が間違っているのかわからない。

 だれか教えてくれ……。



7



 「逃げ出すなら今だぞ?私は止めん。むしろ手助けする」
 「いいえ。私の思いは誰からなんと言われようが変わらないわ」

 解剖台に横たわる艶かしい肉体。鹿の足のように細く美しい足、引き締まった腹、豊満な胸、そして台の上に散らばる黒髪。

 それを見下ろしているのは、全身を濃い青色のビニール性手術着に身を包んだ私だ。ペストマスクも使い捨て用のものに着替えている。

 私の能力は『メスを使って切る、留める、縫合(回復)する』というものだ。つまり解剖をメス一本で行うことが出来る。メスで触れさえすれば恐ろしいほど精密に操作出来ため、化け物じみた手術も可能になる。

 今回の手術は全身に鬼遺伝子を移植すること。ただ、直接移植するには全身の細胞一つ一つにメスで直接触れなければならず非現実的だ。そこで私は鬼遺伝子ウィルスを開発した。全身の細胞に感染し、鬼遺伝子を埋め込んだあと、勝手に自己崩壊するウイルスだ。

 このウィルスをメスに仕込み、全臓器に埋め込むことで、最低限の時間と労力で、全身に鬼遺伝子を行き渡らせる。
 が、彼女の肉体を切り刻むという事実はかわらない。

 「さあ、ドクター早くはじめて。こうして寝てるだけでも、ちょっぴり怖いんだから」

 「だったら止めればいいじゃないか」


 もっともそんな選択は彼女に残されていない。彼女がもし、手術を耐え、『あの人』を止めれば、たくさんの人が犠牲から免れるはずだ。私的な恋人への思いと激情が、社会的な理由を得たことにより、さらに強固になった。もはや誰も彼女を止められはしない。


 「わかった。……その前によく体を見せてくれ。君の生の肉体を見ることが出来るのはこれが、最後だから」

 「いいわよ。好きなだけ見て頂戴」


 見れば見るほどもったいない肢体だった。穢れのない純粋無垢に見える、白い肌。それも、今日で最後だ。鬼遺伝子の副作用は外見にも反映されてしまう。

 本当になぜこの体を切り開かなければならないのか。

 どれだけの時間がたったかわからなかったが、とうとう私はみるべきものを全て見終えてしまった。


 「ありがとう。私は君のその美しい体を一生忘れない。そして、さようならルビネル」

 「ええ、失敗したらまた来世で会いましょう」


 私は注射器を取り出すと、ルビネルの腕の中央にあるか細い静脈に麻酔薬を注入した。彼女は目をつぶり、静かに寝息をたてはじめた。

 私は解剖用のメスを手に持つと、ゆっくりとルビネルの白い肌に突き刺した。

 ひとたび術式が始まれば、私の心は嫌がおうにも冷静になる。私はまるで決められた作業をこなすロボットのように、ルビネルの体を切り刻んでいった。


 この瞬間、人とは何なのであろうかといつも思う。体を切り開き、臓器の一つ一つをまじまじと見つめると、これが人の生命を維持しているとは到底思えない。
 卵豆腐を少し薄くしたものにシワをつけ、一ミリに満たない黒く細いホースを張り巡らした物体が、人の記憶や行動、俗に言われる心とやらですら管理しているらしいが、とてもそうは思わない。

 肉屋のモモ肉をもう少し濃くした握りこぶし大の物体にちょっぴりの黄色い脂肪と、植物の蔓のように血管が巻きついたものが、生命を司る心臓という臓器なのだと言われると酷くげんなりした気分になる。

 垂れ下った黄色いスポンジのようなぶよぶよした半円形の物体に触れるのが、男の夢らしい。何だか笑えてくる。

 理屈でわかっていても感情が拒否する。これがあの可愛らしい少女の中身だとは思えない。確かに整然と収納され、芸術的とも言える配列で、生命を維持している臓器たちは非常に精巧で美しいとは思うが、それとこれとは違う。

 ただ、これこそがルビネルの肉体であり生命であるという事実に変わりはない。これを絶やしてはいけない。

 ガーナ王に渡された『設計図』の情報を頼りに、私は黙々と作業を進めていった。

 手は震えない。指先の神経の一本一本に命令を出しているような気分だ。恐ろしいほど自分の腕が、指が、自由に動く。

 自分の出来ることを淡々と進めるのだ。あの鬼畜に言われたではないか。普段と同じように冷酷に冷徹に、やるべきことをやる。そうすればきっと……

 大粒の汗が額から垂れるのを感じる。体力には自信があるはずの自分の肉体が明らかに悲鳴をあげていた。さすがに休憩なしでぶっ続けで手術をするのは、いくらなんでも無茶だ。とはいえ鬼遺伝子ウィルスの進行具合を常に確認しなければならないため、休んでいる暇もない。制御に失敗したら水の泡だ。

 ルビネルは言った。『私が止めなければならない』と。彼女はそれだけのために自らの肉体を捨て、化け物と成り果てようとしている。私にそれを止める権利はない。私に出来るのは、彼女の意思を尊重し、彼女の思いに答え、確実に手術を成功させることだけだ。

 ひたすらメスを動かす。この一刀が彼女の未来を切り開くのだ、と自分に言い聞かせる。しかし、実際は彼女の肉体を傷つけ命を削っているに過ぎない。
 精神的にも肉体的にもあまりに辛い所業だった。どうすればこの苦痛から逃れられるのだろう。考えても答えは見つからない。今自分のしていることが正しいと信じて進むしかないのだ。

 ここが正念場だ。私の心が折れないうちに手術よ、終わってしまえ!

 数時間後、私は部屋の端で座り込みながら、心電図の波形を眺めていた。だんだんと弱まっていく電気信号に危機感を覚える。彼女に薬剤を注入しつつ、もしものために準備を急ぐ。だんだんと乱れる彼女の呼吸。流れ出る汗。各種検査を開始する。

 だが、その検査中に心電計がアラートを発した。私は心臓マッサージをしつつ、いくつかの薬剤を彼女の腕に注入した。焦燥感にかられ、発狂しそうになる自分をどうにか理性で押さえつける。

 病巣と思われる場所にメスを突き刺し引き抜いてから数分待つと、彼女は静かな呼吸を取り戻した。
 意識が飛びそうなのを必死にこらえながら彼女の様子を見守る。
 耐えろ……耐えてくれ、今が峠だ。ここを乗り越えればッ!

 そして、さらに数十分後、彼女がもぞりと動いたのを見て、慌てて駆け寄った。



 「おはよう、ルビネル。気分は?」


 私はベッドに横になっている彼女に声をかけた。ゆっくりと彼女は目を開ける。そして、自分の体がどうなったのか、ということを長い時間をかけて受け入れた。

 「……生まれ変わったみたい。とても自分のからだとは思えない。……随分と奇抜な模様ね」

 「呪詛によるの黒色の肌と鬼遺伝子の副作用である青い表皮が混じりあった結果だ。顔と手首足首だけはどうにか元の形を維持した。私のようにコートを着れば問題ないだろう」

 おめでとう、とは言えなかった。彼女の寿命は残り六日と十四時間だ。それに、いくら手術に成功しても、負けてしまっては意味がない。

 「そう……」

 疲れからか、安心からか、再び彼女は眠りについてしまった。顔だけ見れば以前と変わりない。それがせめてもの救いだろう。

 私は手術が終了したことを伝える緊急コールを行い、引き継ぎに来た凄腕のアルビダ医師に必要事項を伝えると、目の前が真っ暗になった。



8



 私のコートは鬼の怪力を前提に作られているため、重い変わりに収納スペースがやたらと多い。けむりだまをはじめとする数十種類の武器やサバイバル道具、一週間は持つ携帯食料を持ち歩くことが出来る。

 「黒いコート?」

 「これしかいい服が用意出来なかった」

 移動式のベッドから降り、服を着終えた彼女にコートを手渡す。数キロは軽くあるコートをいとも簡単に羽織ってしまった。

 「軽く作られているのね」

 「いいや。ルビネルの腕力が上がっただけだ」

 明らかに学生とは思えない風貌だ。黒いコートに黒いブーツ、そして手袋。肉体は藍色と黒を中途半端に混ぜ合わせて、その上から二つの色をスパッタリングしたような不気味な様相を呈している。
 もはやルビネルの種族であるアルビダではなく、呪詛の暴走を起こしたサターニアに近い。だが、鬼特有のしなやかな筋肉もあわせ持っている。

 治療用の煙がまだ残っている部屋を、私たちは後にした。

 「……お披露目といこうか」

 私はマスクの中で半ば癖になってきた、ため息をつく。

 私は今まで自分の意思で自分のやりたいように人を黄泉へと導いてきた。自殺を望み、生きることに苦しみを感じる人々の救済をしてきた。だが、今していることは単なる処刑だ。患者のあらゆる苦痛を取り除くのが私の仕事であって単なる殺人が仕事ではない。

 私は胸から発せられる悲鳴を押し殺して、ルビネルを先導した。病院から出て、老人に借りた黒いワイバーンに乗り、騎手に指示するとあっという間にドレスタニア城前に降り立った。
 門番が私たちを見るなり強ばった。黒コート二人というのは中々威圧感があるらしい。通行許可証を見せ、中へと進んでいく。
 場内に入る直前で焦げ茶のスーツに身を包んだ老人が姿を現した。

 「どうやら、成功したようですねぇ、旦那」

 「ああ」

 老人はルビネルの顔をまじまじと見つめる。老人の眼光だと恐ろしいことこの上ないが。

 「予想以上に上手に仕上げられたようで」

 「彼が頑張ってくれたお陰よ?」

 ルビネルはにこりと笑い老人に答えた。なぜだ……なぜあんなにルビネルは落ち着いているんだ?たとえ戦いに勝って戻ってきたとしても、もはや普通の生活は送れないんだぞ?

 老人は帽子を深々とかぶり直した。肩が時おり震えているように見えるのは気のせいだろうか。
 老人にガーナ王の部屋の前まで案内された。私はおもむろにドアノブを捻る。

 部屋には車イスに座っているにも関わらず、すさまじい威厳を放つ男がいた。鋭すぎる眼をルビネルに向ける。

 「手術は……成功したのか?」

 「はい」

 ルビネルは深々と頭を下げる。ガーナ王はその一言を聞くと、威圧感を緩めた。

 「そうか、まずはひと安心だな」

 「お前のお陰だよ」

 チッと大人げなく舌打ちをしたのを見て、ガーナ王は僅かに口をつり上げた。仕方のない奴め、とでも言いたげな顔だ。

 「決戦まであと三日を切りやした。早いところ準備を進めましょう」

 心なしか老人の声が上ずっているのも気のせいだろうか。
 ガーナ王が私をぎろりと睨んだ。あまりの眼力に少し後ずさりしてしまった。

 「念のため期限を確認しておくが、ルビネルの命はあと何日だ?」

 「今日の午前手術が終了したから、あと六日ちょっとだ」

 期限を聞かれると、もともと憂鬱な気分だったのがさらに落ち込む。微かな達成感もこの一言で容赦なく消え去る。私がしているのは真性の殺人行為だと改めて認識させられるのだ。
 老人がうんうん、と頷いて前に出てきた。

 「予定通りですねぇ。体ならしに丁度いい場所がありやす。ついてきてくだせぇ」

 私たちは老人につれられ、外に止めてあった黒いワイバーンの群れに案内された。いつの間にか数が増えており、私たちの人数分に加えて、さらにボディーガードらしき人が乗った護衛用のものまで用意されていた。
 私たちは騎手に気を使いつつワイバーンに乗り、海を越えてベリエラ半島へ向かうべく出発した。



 ドレスタニア国を出るか否かの地点で、海を背景に銀色に光る何かが私たちに近づいてきた。

 「うおぉぉぉい!わらわを忘れておるぞぉぉぉ!」

 ドレス姿の少女が文字通り飛んできた。背中についている三角形の飛行ユニットが火を吹いている。

 「お前はショコラと遊んでいるんじゃなかったのか?」

 あんまりにも楽しそうに遊んでいるから、こっちなりに気を使ったつもりだったんだがな。いらん気遣いだったようだ。
 ワイバーンに平然と追い付いたセレアはニカリと笑うと大声で答えた。

 「ショコラは今エリーゼが探しておる。それまでの間の暇潰しじゃよ。さて、ルビネル。お主の実力はどの程度じゃ?わらわがサンドバックになってやろうぞ」

 ルビネルがワイバーンから身を乗り出した。騎手が警告するが、それを無視して内ポケットからアトマイザーを取り出すと、中身を射出した。

 「いいわ。今ここで相手をしてあげる」

 海が島を飲み込むかのように、ドレスタニアが地平線に消えていく。それに対してベリエラ半島が前に見えてくる。海上で戦うつもりか?

 ルビネルは一気にワイバーンから飛び上がった。そのまま空中を歩くかのように、エアリスに前進していく。

 今までなら精々空を飛べるとしても、滑空が限界だったはずだ。ボールペンの方が体重に負けて折れてしまうからだ。
 ルビネルの能力も強化されている。恐らく、ボールペンを単に動かすだけでなく強度をあげる能力も手に入れたのだ。
 数メートル離れて向かい合う二人。

 私たち一行はワイバーンを制止し、この派手なゲームを見守ることを選んだ。
 


9




 私と老人そしてガーナはそれぞれワイバーンにまたがり、固唾を飲んで向かい合う二人を見守っている。

 全員の視線の先には二人の少女。片や黒髪に黒コート。片や銀髪に白いワンピースに、リュックサック型の飛行ユニットが目をひく。

 老人はカルマポリス呪詛式通信機を取り出した。私たちもそれに倣う。老人のつれてきた部下たちによって、二人の様子が脳内に直接送られてきた。視界内の物体を正確に追える妖怪と、その妖怪の視界を周囲の人間に共有する精霊の加護だ。

 「二人とも、出来れば俺たちの視界の範囲で戦って下せぇ」

 二人は頷くとそれぞれ臨戦態勢に入る。セレアの右腕が銀色の液体と化し、全く別の形に変形していく。最終的にセレアの右腕はガトリングガンに変形した。銃口から無数の弾丸が射出される。
 実は、セレアの体は液体金属で出来ている。全身のうち三ヶ所を自在に変形出来るのだ。今のところ判明している変形出来る部位は、肩から先と太ももから先、そして背中だ。
 ばらまかれる銃弾に対して、ルビネルは縦横無尽に空中を動き回り避け続ける。追撃に撃たれた二発のミサイルもペンで易々と迎撃した。

 「手術前に比べて動きが明らかに良くなっている。動体視力や判断力もかなり上がっているようだ。しかも肉体が鬼と化しているお陰で呪詛も無理がきくらしいな」

 冷静に分析するガーナの声が無線機から聞こえた。

 ルビネルはさらにエアリスに接近すると、ボールペンを乱射する。セレアは避けようとするも、ボールペンの追尾能力が高くなかなかふりきれない。

 「ほぉ、少しはやるようじゃの?」

 セレアの背中の飛行ユニットが瞬時に巨大化した。セレアを優々と隠す程の大きさだ。三角形の飛行ユニットは、足元にバーナーを装着した黒い凧のように見える。

 「あれは何ですかい?」

 「セレアが高速飛行するときの形態だ。速度は速いが減速しにくいのと、曲がりにくいのが欠点だ。また、高速飛行中にダメージを受けると停止せざるを得ないという弱点もある。液体ではあるが金属だ。過冷却されると凍ってしまう」

 ふむ、というガーナ王の声が割り込んできた。

 「随分と詳しいのだな」

 「半殺しにされたから研究した。本人と一緒にな」

 セレアは体をのびーっとして、日向で横になっている猫のような姿勢になった。万歳をして顔を上に向けている。飛行ユニットが猛烈な業火を吹き出したかと思うと、セレアは私の視界から消えた。いつのまにか、飛行するルビネルの後ろをとり、ガトリングガンを連射している。
 ルビネルはジェットコースターが如くシャトルループを決めてセレアの背後を取りに行く。負けじとセレアもルビネルの背後を狙い続け、両者きりもみしながら空中を高速移動する。だんだんとセレアとルビネルの距離が縮まり、ルビネルが追い詰められていく。

 「まるで鳥獣の戦いですぜ。人型の妖怪がする戦い方じゃねぇ」

 「ペンだけでよくぞここまで出来るものだ」

 「片手だけしか使ってないな……。セレアは背中の飛行ユニット含め、全身のうち三部位を変形出来るはずだ」
 
 とうとうセレアとルビネル、追うものと追われるものの関係が逆転した。急旋回でセレアの背後をとったルビネルは、無防備なセレアの背中にボールペンを投げ込んだ。
 セレアは飛行形態を解くと、ガトリングガンを剣に変え、ボールペンを叩き落とす。
 呪詛により、強度が増したボールペンは簡単には壊れない。弾かれたボールペンは完全に破壊されるまで、まるで磁石に引きつく金属のようにセレアに食らいついていく。

 「右腕だけでペンの嵐を防ぐとは」

 ガーナ王の言葉に私は頷く。実際にはガーナは他のワイバーンに乗っているので、彼から私は見えていないが。

 「当然だ。セレアは片腕だけでソラやライスランドの先生、クライド、バトーの二刀流……他にも様々な達人たちとわたり合っている」

 ボールペンだけでは埒があかないと考えたのか、とうとうルビネル本体がセレアに突撃した。セレアの頭上から回転しながら強烈な裏拳を叩き込む。
 さすがのセレアも左手を使わざるを得なかった。肘を曲げて、ルビネルの裏拳を受け流した。ルビネルは攻撃の手を緩めず、受け流された反動を利用して、後ろ蹴り、回し蹴り、横蹴り、と流れるようにラッシュをかける。
 必殺の一撃はコンクリートすら砕くとされる鬼の筋力。そして、それをマッスルスーツのように補助する全身に隠されたペン。
 蹴る瞬間には足に仕込んだペンを操作し、蹴る向きに動かすことで攻撃の速度を加速させている。運動量は速さの二乗に比例するから、加速による影響は手数だけでなく、打撃の威力にも貢献している。クォルの大剣を受け止めるセレアの剣でも防ぐのは容易ではないはずだ。

 「鬼の再生能力で呪詛の肉体への負担を無視出来るし、逆にペンを操る呪詛で打撃を強化できる。予定通りですぜ」

 異なる二種族の力を同時に、それも高出力で、扱えるものなどこの世には殆ど存在しない。単純な戦闘力だけで言えば、かなり上位の存在になったはずだ。もっとも、その代償が大きすぎて釣り合っていないが。

 「セレアの方もルビネルの動きを読み、力を受け流し最低限の労力で攻撃を防いでいるな。お前の戦況報告によれば、セレアは回復力にものを言わせて防御などせずに相手を叩きのめすとのことだったが……」

 「数々の強敵と戦ったことで学習している。前と動きが同じなわけがない」


 じりじりとセレアが押されていく。両手をフル活用してボールペンと拳を受けつつ、剣撃をくりだしているようだが、このラッシュはセレアにも厳しいらしい。前半とは売ってかわってルビネルのペースだ。

 「ふむ。打撃の強さは鬼の中でもトップクラス。じゃが付け焼き刃の格闘技術に加えて、近接戦闘そのものの経験が浅いから生身で言えば、ソラや紫電といったプロには一歩及ばない。呪詛は汎用性が高い上にそれなりに強力じゃが、EATERやハサマといった規格外の強さではない。二種族の力を合わせて、ようやく強者に勝てるか程度の実力じゃ」

 不穏な通信が入った後、セレアは両腕を採掘機についているドリルのような形に変形させ、ダメージ覚悟で突進した。なんとか避けたものの、突然の出来事にルビネルは一瞬無防備になった。その隙をつき、セレアは腕をさらにヒモのように変形させルビネルの体に巻き付ける。

 そのまま、高速飛行しつつ前方から後方に向けて暴風の呪詛を発動。向かい風にルビネルを叩きつける。かまいたちがルビネルの背中を切り裂いていく。
 そして止めと言わんばかりに、スクリュードライバーの流れに持ち込んだ。海面にルビネルが打ち付けられる。あの早さでは地面に叩きつけられるのと同じだ。普通の妖怪ならまず生きてはいないだろうが……


 「……お主はよく頑張った。武芸者でもない、一般人であるお主が短期間で人としての限界を越えた。素晴らしいと思う。じゃがな、もうわかったじゃろう?お主がこの期間でいくら努力しようと一線を越えることは出来んのじゃ。あと二年、恵まれた師に従事すればよかったものを……」




 「本当にそうかしら?」




 海から水柱が建った。その頂上から人影が一直線にセレアヘ向かっていく。

 ルビネルは拳を腰まで引いている。ためをつくり、必殺の一撃をセレアヘ食らわせるつもりだ。
 突如として浮上したルビネルにセレアは少し驚いている様子だ。両腕を交差して防御の構えに移る。
 
 ルビネルの拳はセレアのガードに阻まれてしまった。

 「おしかったのぉ、ルビネル」

 「いいえ?」

 ルビネルの拳がセレアのガードをぶち抜き胸部を打った。その瞬間、無数のペンがセレアに突き刺さる。
 腕を失いガードの出来ないセレアに対して、拳とペンの連打が襲いかかる。セレアの肉体がボロ雑巾のようにほつれて、原形を失っていく。

 「及第点……じゃな」

 ルビネルがラッシュを止めたときには、セレアは宙に浮かぶ銀色の水滴と化していた。


 「ほう、あれをくらってまだ戦えるんですかい?」

 老人の疑問にガーナ王の丁寧な解説が付け加えられた。

 「鬼に伝わる技術であるパンプアップだ。全身の筋肉に血流を送り込むことで、一時的に筋肉を膨大させる技術。それによって衝撃への耐性が増加する。さらに背中に仕込んだペンを操作することで、海面に直撃する寸前で速度を弱めた上、受け身をとった。咄嗟にしてはなかなかの判断力だ」

 ガーナ王の言葉に少しだけ安心した気がした。これなら、ルビネルは敵を倒して帰って来るかもしれない。

 「相変わらずえげつない汎用性ですね。ボールペンの呪詛。まあ、セレアがどっからどう見ても本気を出していなかったのが気になりやすが、まあいいでしょう。俺は自信をもって彼女を推しますぜ」

 老人も満足げに笑った。彼らの様子を見て、私はようやく覚悟を決めた。

 「ルビネル、今の気分はどうだ?」

 「……落ち着いてる。全ての感覚が研ぎ清まされて、全身が闘いに対して、適応しているような気がする。初めての感覚だわ。もう、体の動かしかたや特性も理解した。次はこんな無様な闘い方はしない」

 「そうか……。お前たちがそう言うのなら……私も腹をくくってルビネルを送り出すことにしよう」



10





 「ここが、その場所か。ずいぶんとまた美しい場所だ。キスビット国にこんな場所があるとは」

 ガーナの言葉に偽りはない。辺り一面空色の花に覆われている。所々白い花の円があり、同じく白色の蝶が舞っている。

 「どちらが空だか見分けがつかんな」

 私はペストマスクを上に動かし、快晴の空を見上げた。

 「門出としちゃ粋な計らいですぜ。もっとも、見送りがセレアを除いてゴツい輩ばかりですが」

 老人が焦げ茶の帽子に手をかけてニヤリと口をつり上げる。

 「もし不快だったらわらわが『かっ飛ばす』からな」

 笑顔で物騒なことを言う、あの修業のあと数分で完全復活したセレア。年寄り三人組は、ハハハと言いつつそれぞれ獲物に手をかける。私含め、ばりばりの警戒心を微塵も表情に見せない辺り、化け物揃いの面子である。
 私と同じく、黒い髪とコートをはためかせながら本日の主役が微笑む。

 「フフフッ!ありがとう。肩の力が抜けたわ」

 清々しいほどの笑顔だった。おめかしして大好きな女友達と出かける的な雰囲気だ。やけに落ち着いているのは修業の賜物だろう。
 たった一ヶ月とはいえ、闇の世界でトップクラスの実力者であるガーナ王と老人の元で修業し、よく動くサンドバックこと私を毎日ボコボコにしていたのだ。冷静沈着を地で行く二人に教え込まれたお陰で、身体能力だけではなく冷静さに加え推理力や観察力、判断力も洗礼されている。
 私は知っている。図書館に引きこもって必死に知識を蓄えるルビネルを。老人とガーナ王の教えを素直に受け入れ、それを実践しようと一日に数千回技をかけ、研きあげていたルビネルを。血ヘドをはきながらも何度でも立ち上がり私に立ち向かっていくルビネルを。そして、最後には私を打ち倒して、満足げな顔で私を見下ろしたルビネルを。
 ルビネルの中にはどんなことがあろうとも対応出来るだけの基盤はもうすでに築かれている。だからこそ、ルビネルは死地へ向かうという異状であり得ない状況でも普段通りなのだ。
 たとえ、寿命四日でも……。

 「そろそろ予言の時間ですぜ」

 白い花の円のうちひとつが発光し始めた。光はやがて、扉のような形に姿を変えた。周囲の気流が変化し、まるで換気扇に煙が引き込まれるかのように、光に向けて空気が流れていく。恐らく別空間に通じる穴のようなものだろう、と私たちは推測した。

 「どうやら、あれが占い師の言う『腕』らしいな」

 敵の能力に唯一対向することの出来るルビネルが先陣をきり、その後老人・ガーナと続き後方をセレアにカバーしてもらう。陣形を組み、『腕』に飛び込むチェックを済ます。
 よくよく考えると頼りになることこの上のないメンバーだ。生粋の策士であり、どんなことがあろうとも決して油断なく隙なく勝利を狙っていく老人。冷徹非情でとても頭が切れる上、一度放つと千日は燃え続ける業火━━レヴァテインという秘技を持つガーナ王。戦闘能力はもとより、再生能力を持ち何度粉砕されようと甦るセレア。そして、鬼の怪力と再生能力、妖怪の呪詛という本来なら不可能な組み合わせの力を持つルビネル。

 「ここで足踏みしていても仕方ない。行くぞ!」

 ガーナ王が私たちを鼓舞するために叫んだ。

 「さようなら、解剖鬼さん」

 ルビネルはゆっくりと光の扉に入って行く。光に包まれた後ろ姿は神々しく、彼女がまるで女神か何かのように錯覚する。消え去る直前で振り向き、笑顔で私たちのことを見つめつつ向かっていった。

 最後の最後に名前を呼ぶとは……泣かせてくれる。

 私は……ここで帰りを待つ役だ。出口を確保しておくために最低一人は信頼できる誰かを残しておく必要がある。私は居残りを買って出た。もうすでに戦いの次元は私の実力を遥かに越えており足手まといになるからだ。小説や漫画ではよく『かませキャラ』というものがいるがまさにそれだろうな、と自嘲する。

 私が居残り役に手を挙げたとき、唯一哀しげな顔をしてくれたな。

 「帰りを待っているぞ、ルビネル」

 彼女の背中に私は手を振る。

 私は今までルビネルの主治医をしてきた。風邪があれば薬を処方したし、健康の相談があればのってあげた。ただ、それは決して彼女を戦地へ送り出すためのものではない。ルビネルの拳で誰かを傷つけさせるために行ったのでもない。彼女の健やかな成長と、希望に満ちた人生のために私が出来る最大限の手伝いだった。
 ここまで来て、まだ私の心は揺れていた。後悔、その二文字が私の頭を支配して離れない。

 ……と、悲嘆にくれている私を三人の声がたちきった。

 「なっ!そりゃあないですぜ!」

 「これは、どうなっている?」

 「扉がきえたじゃとぉ!」

 開いた口がふさがらなかった。ルビネルがくぐった際に扉が消滅していたのだ。

 「まずいな。ルビネルにつけた呪詛式発信器も沈黙している。転送の術を使える者は?」

 ガーナ王が老人に言った。

 「ダメです。さっきから試しているんですが、術の痕跡を探しても何もねぇ」

 「ちょっ……ちょっと待てぇ!じゃあルビネルは単独で『奴』と戦うのか!?っていうかどうやって戻るんじゃあ?!」

 ガーナが苦虫を噛み潰したような表情をしている。そんな様子を見かねて私は口を開いた。

 「待とう。当初の予定通り、私がここでルビネルを待つ。ガーナと老人は出来ることをしてくれ。短期間とはいえ、私たちで育て上げ自信をもって送り出せると太鼓判を押したような奴だ。必ず帰ってくる。それに、私たちが信じなければ誰が彼女の力を信じてあげれるんだ」

 「そうですぜ。悲観する前に出来ることをしておきましょう。俺はとりあえず部下たちに指示を出してきやす」

 老人が顔をあげて部下の元へと歩いていく。

 「そうだな。人の力というのは侮れん。それに、他者と協力していたとはいえ、私でも不死者に一太刀浴びせることができたのだ。彼女に出来ないはずがない。それにこのゲートは一方通行ではあるが、ルビネル側にこの場所に戻るための扉がある。その証拠に、門のあった場所からわずかばかりに気流が流れ出ている」

 含み笑いを浮かべつつガーナも老人と共にこの場を立ち去る。
 ドレスタニア図書館にこの現象についての記述があったのだ。そして何より、ガーナはルビネルのことを信じている。

 「わらわは……どうすればいい?子供だからこういうとき何をすればいいのかわからん」

 「好きにすればいい。気をまぎらわしてもいいし、ガーナ王や老人に協力してもいい」

 「そなたは?」

 「待ち続ける」

 「そうか。お主が待つなら、わらわは迎えにいくととしよう」

 セレアが空の彼方へ消えていった。ダメ元で世界中を探索するらしい。
 一応、一週間程度の備蓄は用意してある。信じて待つしかない。
 信じていれば奇跡はきっと起こるはずだ。
 ほぼ丸腰でノア教本堂から逃げ出すときも、犯罪者は生きては出られぬとされるチュリグで逃亡していたときも、蛾の化け物に丸のみされたあげく意味不明な奴にとりつかれた時も、遥かに格上であるエアリスが群れをなして襲いかかってきた時も、私は常に自分を、そして仲間を信じてきた。そして、何度死にかけようともありとあらゆる手段を用いて生き残ってきた。
 私はいかなる状況でも『必ず生き残る』と信じ続け、常に最大限の努力をしてきたからだ。生を諦めるなどという言葉は私には存在しない。

 その執念を叩き込んだ彼女もまた、地を這いずり回ってでも生きて帰ってくるはずだ。

 私は花畑を見渡した。空色と白色の花。
 そうだ、帰ってきたら花飾りでもプレゼントしよう。私のアンダーグラウンドなら、植物を傷つけることなく花を摘むことが出来るはずだ。
 私が花で作られたリングを手に持つ姿をみたら、ルビネルはどんな反応をするのだろうか。あまりのギャップに、あの笑顔をもう一度見せてくれるに違いない。


 「頼んだぞ、ルビネル」




 私は花畑で座り込み、ただひたすら祈っていた。




 日が沈み、日が登り、そしてまた日が沈んだ。蝶がとまったり、イモリがコートの上を這いずり回ったりしたが、全てほっといた。手に花の冠を持ったまま、私は一切動かなかった。一日に数十分ほど風呂に入る時間を除き、私はずっとルビネルを待ち続けた。

 老人になんと言われようと、目の前でセレアが泣きじゃくろうと、ガーナ王が悲壮めいた目で私を見つめようとも、動かなかった。

 私は花の冠のかわりに握られた、紅色の手帳をボーッと見つめながら、何日も何日も待ち続けた。

 そして、一ヶ月が過ぎたころ……私は全てを理解し、立ち上がった。

 私は何度となく見直したページをもう一度開く。








『私は晴れ晴れとした気持ちです。まるで、一点の曇りもない晴天がどこ待ても続くよう。

私が帰らないことをどうか、赦してください。

ことをなし得なければ、愛する人の手によって、さらに多くの人がこの世を去ってしまいます。だから私は行くのです。

遺品は全て売ってお金にして父と母に渡して下さい。この先十年も二十年も親を悲しませるのは辛いですから。

書くことはまだまだありますが、思い付くことは感謝の言葉だけ。父、母、従姉、私を支えてくれた友達や先生、最後までついてくれた仲間。

私がみんなからもらったものに対して、月並みの感謝の言葉では到底言い表せないけれど━━ただ、ただ『ありがとう』。一言に尽きます。


ありがとう


ありがとう』




 ルビネルの動脈血と脊髄液に心筋細胞が混じりあった液体。それが大量に付着し、固まった手帳を閉じた。

 いつものことじゃないか。人は唐突に死ぬ。事故で病で自殺で。そして私は幾度となく自殺志願者を安楽死させてきた。
 だが、何故だろうか。何でここまで胸が痛むのだろう。胸が引き裂け正気を失いそうだった。

 気がついた時にはすでに、全身を震わせながら泣き叫んでいた。声帯が破壊され、喉から血を吹き出した。濁り拳からは血が滲み、手袋のなかに血だまりが出来る。

 私は愚か者だった。逆らおうと思えばいくらでも逆らえたはずだ。彼女の思いを踏みにじり、全員から恨みや憎しみを買おうとも彼女を止めるべきだった。
 私が彼女を冥界へと手引きしてしまったのだ。

 後悔先に立たずというが……頭で理解しようが納得できん。とりあえず、動くんだ。

 彼女の遺してくれたこのメモ帳には、奴の特徴や弱点が詳細に記述されている。ルビネルが私たちに進むべき道を示してくれたのだ。ルビネルの、誕生日後の自己犠牲を無駄にしてはいけない。

 空色の花畑が目に焼き付いている。目を閉じてもあの花畑の幻影が浮かぶ

 紅色に花畑の空色が混ざりあい、混沌とした色調を呈するメモ帳を懐にしまい、私は一歩踏み出した。



11





 大型の蒸気船に乗って、ペンを収納出来るホルスターつきガーターベルトを装着してキスビットへ発ったのがつい最近のことのように思える。

 総勢20人で、しかもそのうち半分以上が世界有数の実力者というメンバーで私たちはビット神と戦い、そして敗北寸前にまで追い詰められてしまった。けれどもとある一人の仲間によって形勢が逆転し、勝利した。
 それが以前キスビットを訪れた時の冒険だった。

 そして今、私は再びキスビットの大地に降り立っている。

 私に『あの子』が遺してくれた最後のプレゼント。『奴』の呪詛が詰まった数本の髪の毛。そのお陰で私は『奴』に対して耐性を得ることが出来た。


 そして、その髪の毛に導かれるように私は……

 時を越え、

 場所を越え、

 命を捨てて力の差を埋め、ここまでやって来た。



 奇妙な場所だった。
 目の前に広がるのはカルマポリスのような高層ビル郡から突然人が消え去り、そのまま放置されたような廃都市だった。打ち付けるかのような激しい雨が降っているが、その雨粒は淡い乳白色に発光している。空をおおう雲は薄く空を覆い、裂け目から眩い光の柱を放っていた。
 アスファルトには亀裂が入っており、ところどころに灰色の花が覗かせていた。つりがね型の三枚の花弁が雨水に打たれて揺れている。

 あまりに現実場馴れした光景に、私は何をしに来たのか忘れそうになった。

 思い出したかのように、コートの下に潜り込ませたメモ帳に記録をつけ始める。

 私に加えて、老人にガーナ王とセレアちゃん。この四人で『奴』を倒すために、居場所へと通じる光の扉を潜ったはずだった。
 でも、扉は私が潜った直後、振り向くともうすでに閉じていた。仲間はこちらにこれなかった。私一人で『あの子』を相手にしなければならない。
 
 大丈夫、愛と執念だけでここまで来たんだもの。

 私の黒髪に、コートに、ブーツに水が滴る。
 四斜線ある道路の中央を進んでいる。重々しく歩くごとに、水を踏むグシャリという音が雨音に混じった。
 
 どこを見渡しても人どころか生物らしきものが存在しない。植物もネズミ色の花ばかりで他には見当たらない。

 灰色と乳白色が混ざりあう景色のなか、唯一『黒い物』があった。それは髪の毛だった。すべての色を飲み込み、まがまがしく変わってしまった黒い髪の毛。

 私が手にした数本の髪の毛と同じ髪だった。

 髪の毛の持ち主は私を待っていたかのように、じっとこちらを見据えている。不気味な髪の毛とアルビダ由来の白すぎるに対して、簡素で一般的なキスビット産の衣類を身にまとっている。
 そして、衣類から除かせる手足も全てを飲み込むような漆黒に染まっていた。
 彼女の周囲だけ雨が降っていない。その上空は切り取られたかのように空が見え、光が差し、彼女の輪郭を金色に照らしている。
 私の恋い焦がれた存在がそこにいた。


 「わざわざ来てあげたわよ?」

 「ようこそ、ビットの世界へ。お前は……はて……誰だったか」

 「わすれたの?ルビネルよ」

 聞いたら誰もがいとおしくなるような少女の声でビットが答えた。
 私は久しぶりに聞いた親友の声に涙しそうになるも、なんとかこらえる。それと同時に、『誰だ』と言われて胸に刺さるような悲しさを感じた。


 「そうか……、ルビネルか。虫けらの名前などいちいち覚えてはおれぬ」


 私の記憶が正しければビットはまともな言葉が話せなかったはずだ。恐らく依り代が変わったことによりその思考レベルまで変化したのだろう、と私は推測した。

 あと、敵はどうやら高度なコミュニケーションの魔法を使えるようだ。脳内に奴の声が重複して聞こえる。瞬時に相手に言いたいことが伝えられる魔法らしい。戦闘中でも容易に会話が出来そうだった。これを利用した駆け引きも出来そうだった。
 

 「よぉーやくまともに話せるようになったのね。あなたの目的は何?」


 私はニヤリと嘲笑を浮かべるとビットに向かって言い放った。
 ビット神は無表情のまま口だけを動かして答える。


 「風にのり世界に解き放たれた私の分身たるキスビットの土壌は、世界各地で憎悪を呼び動乱を巻き起こす」


 ビットが空に黒色の染まった手をかざし、何かを掴むような動作をした。すると、空に存在する雲がビット神を中心として渦を巻き始めた。強烈な風圧がビット神から放たれる。
 風によって雨が横殴りになり、私の頬をぶつ。コートが激しくはためいたが、私は不動を貫いた。
 やがて、私のいる場所から数十キロメートルの地点をビットの土壌を含んだ嵐が、波紋のように広がっていく。そしてとうとう、空間の壁を突き破り私のすむ世界へと解き放たれた。


 「私はアウレイスの力により怪我や負の感情を吸収できる。神の力の象徴たる神聖なる土壌から民衆の負の力を吸収し、この世に再び降り立つ」


 ドレスタニアの海上にいた紫電は突然の砂嵐に、船員を船室に待避させた。

 同じくドレスタニアのメリッサは雲行きか怪しくなってきたので、嵐がくるまえにと洗濯物をしまいはじめた。

 ライスランドに砂嵐が来たがカウンチュドには特に関係なかった。

 チュリグにも砂嵐が舞い上がったが、ハサマ王の力により相殺された。

 リーフリィでは精霊たちが砂嵐の対応に追われていた。

 アンティノメルでは謎の砂嵐をいち早く察知し、土壌の成分の分析を急ぎつつ、世界各国に伝令を送っていた。

 メユネッズにも砂嵐が近づき、ダンは不吉な予感を感じ、空を仰ぎ見た。

 そしてキスビットでは事前に計画を知っていたエウス村長が、最悪の事態を予想して会議を開いた。



 憎しみを誘発する砂が世界へとばらまかれていく。今は少量でも降り積もり堆積すれば、それは立派な土壌となる。

 「一つ問題があるとすれば、ビットの土壌が全国の土を食い尽くすまで数日かかってしまうことだが……お前さえいなくなれば何の問題もない」

 「そんなこと、私がさせると思う?」



 二人の拳が交差した。私は正拳を突きつけると、ビットはそれを前腕で被せるようにして衝撃を逃がしつつ掴み反対の腕で顔面を狙う。私はボールペンを利用してあり得ないほど上体を後ろに倒しつつ、蹴りをビットに向けて放つ。ビットは仕方なく私の手を放すと、下段払いで足を弾いた。
 二人動く度に、私たちの黒髪が激しく宙をまい踊る。

 激しい打ち合いの中、一撃一撃ごとに空気が震えて鋭い音が響く。頬や頭上をかすめるギリギリの最低限の動作で攻撃をかわし、自分の体重を乗せ最大限の反撃をする。
 ガーナさんから学んだ格闘技術がここで生きた。ビット神の攻撃における『力の流れ』を読み、僅かな力をそこに加えることで暴発させる。あらぬ方向に拳は、蹴りは飛んでいき最低限の力で攻撃をさばくことができる。呪詛とか超能力ではなく純粋な格闘技術だ。

 「私と対峙して笑えるとは、なかなかの実力者か、そうでなくては只のうつけか」

 「そのどちらでもないわ」

 拳や足に触れた雨の滴は霧散した。私たちの間には蒸気が立ち上ぼり、その戦いの激しさを物語っている。
 ついに、ビットの一撃が雨水滴る私の懐に届いた。腹から腹膜、腸を通り抜け背中へと衝撃が伝わる。雨水に自分の形の残像を残しながら、私は数十メートルも吹き飛んだ。コンクリートの地面が摩擦により熱をおび、焼き焦げて黒い痕ができた。

 「ウ…………ッ!」

 「考えてもみろ。私は千年間準備したのだ。準備に千年だ。たかが二十年と数日生きたお前が勝てるはずもない」

 「『人の力を甘くみないこと』ね」

 「確かに、お前が来るのがあと少しでも遅ければ予告もなしに世界は私の手に落ちていたが……。お前の言葉を理解した。甘く見ずに全力をもって叩きのめす」

 突然、脳内にまるで現実の等身大コピーのような光景が写真のように描き出される。今の自分の見ているものと同じ場所が描き出されているが、何かが違う。強烈な違和感の正体は、視界の端に写っているルビネル━━つまり私自身と、手を交差するビットだった。

 「『未来は定められた』」

 「……どういうこと?」


 現実のビット神は私を無視して呟くと、脳に描き出された『幻影のルビネル』へ一目散に向かった。手刀を突きだし幻影の首を狙う。本能的に危機を感じた私はボールペンを投げた。ビットの手がボールペンによって逸れて、私の首をカスるだけですんだ。

 その瞬間幻影は消え去り、ビットは思い出したかのように現実の私に向かってきた。

 「何をしているの? 私はこっちよ?」

 「お前に意味がわかることはない。それにしても…_、随分とお前は運がいいようだ」


 二人が磁石に引き付けられるかのように激突する。お互いの頬に拳が激突した。私の視界に地面と空が繰り返し写りこむ。自分が回転しながらぶっ飛ぶというのは想像以上に目が回るな、と私は思った。
 体勢を立て直した二人は空中で再び打ち合う。今度は私がビットの隙をつき、足払いを決め、続けて裏拳を叩き込んだ。

 追撃を試みた時だった。偶然、先程頭のなかに浮かんだ『幻影のルビネルとビット』の位置が重なった。それと同時に私は首元に違和感を感じた。
 だが、私は気にせず、ビットに向かって十数本のボールペンをぶん投げた。戦闘用に改良された程よい重量を持ったボールペンは容赦なくビットの体をぶっ飛ばし、ビルの壁に叩きつけた。壁に雲の巣状にヒビが入る。私は止めと言わんばかりに、空中で助走をつけてからビットの顔面に正拳を食らわす。
 壁を何枚も突き破りながらビットは吹っ飛んだ。

 隙が出来たので、自分の首に手を当てて何が起きたのかを確認する。かすり傷が出来ていた。そして、その意味がわかったときにぞっとした。
 
 ビットが幻影の中の私に手刀をかすらせた位置と同じだったのだ。

 もっと言えば、あれは脳内に描き出された幻影なんかではなかった。あれは恐らく……



12



 豪雨が建物の外をに強烈に打ち付ける。ガシャガシャと窓がゆれ、暴風の強さを物語っている。外は昼間であるにも関わらず薄暗い。
 エウス村長は木製の長机に組んだ腕を乗せ、それを見つめるような形で椅子に座っていた。
 ガーナ王は背筋を正し、悠々と座っているが表情は固い。
 老人は部屋の壁に寄りかかり、鋭い視線を部屋中に向けている。
 セレアは優れた飛行能力を生かし、あえて椅子のない場所で空気椅子をして突っ込みを待っているが、誰も気づいてくれない。
 みな一様に表情が暗く、思い沈黙が部屋を包んでいた。
 そんな雰囲気の中、ガーナ王が口を開いた。


 「状況を整理しよう。現在、カルマポリス国、我が国ドレスタニア、そしてここキスビット国には巨大な台風が発生。さらに、キスビットを中心に大型の砂嵐が全世界に向けて吹いている」


 ガーナの目配せに老人がうなずいて話を引き継ぐ。


 「今吹いている砂嵐の砂は通常の砂と違って、水に触れると乳白色に発光しやす。先程、これは邪神ビットの呪詛による影響だと判明しました。台風による豪雨も乳白色に発光していることから、これらは全てビットの能力によるものと考えられますぜ」


 老人の言葉にエウス村長がピクリと反応した。老人は一旦話をきり、エウス村長を見つめる。
 村長の口より発せられた声にいつものような覇気はなかった。


 「これが全世界に降り積もれば、以前のキスビットと同じく、世界は負の感情にとらわれ、差別や戦争が横行する暗黒の時代へと向かうだろう。交流のあったチュリグやアンティノメルにも救援を要請しているが、自国を守るのに精一杯で支援を受けるのは難しそうだ」


 エウス村長が顔をあげて目をつむった。脳裏に浮かぶのは以前の戦い。迫り来る邪神ビット、正体不明の攻撃、次々と倒れる仲間たち……。
 だが、今と比べると一つおかしな点があった。あのときのビットはただ力を振り回すだけで、その行動に計画性などは皆無だった。


 「千年もの長い潜伏期間はこの術の発動のために使ったらしいな。以前のビットと比べるとあまりにも計画的すぎる。とりつく相手が変わったことでそうとう悪知恵が働くようになった」


 セレアはセレアでビットと出会った時のことを思い出していた。老人の救出に向かった時である。
 全ての斬撃は黒い腕によって無力化された。黒い腕に剣が触れると弾かれるどころか、もう片方の腕から自分に向かって飛び出して来るのだ。遠距離からのマシンガンも同じように全て反射された。
 その上で予測不能、回避不能な攻撃に一方的に曝され、なすすべもなく撤退したのだ。もしあの場にルビネルがいなかったら生き残っていたかすらわからない。


 「時に関する能力は弱まったがその他の能力に関してはほとんど据え置きか、もしくは変化しただけじゃ。むしろ使い方が賢くなった分、より厄介になったと言えるじゃろう。もはやルビネル以外奴に触れることすら叶わん」


 老人は帽子を深くかぶり直すと、唸るような声を発した。ビットの力はギャングの力を総動員しようとも、もはやどうにもならない規模だった。


 「俺の部下に調べさせた結果、奴はどうやら時空を歪めて作り出した異空間にいやすぜ。ルビネルが通ったような『入り口』を特定すること自体は可能ですが、時間がかかります。恐らく、見つける前にビットの土壌が世界を覆い尽くしてしまうでしょう。俺たちにはどうすることもできねぇ」


 そう言うと両手の手のひらを上に向け、肩を上げて『お手上げ』のポーズをした。


 「ビットは今まで各時代に能力(腕)を伸ばしていたんじゃが、今回はこの時代に絞って能力を発動している。つまり、能力を分散させていた以前とは比べ物にならないほど強大な力が今、この時代に作用しているのじゃ。恐らく世界が奴の手に落ちるまで……数週間と持たないじゃろうな」


 セレアが苦虫を噛み潰したかのような表情で呟く。沈うつな表情だが、それでも空気椅子は止めない。
 セレアの空気椅子を、空気を読んであえて突っ込まないガーナ王が総括した。

 「今は彼女にかけるしかあるまい。我々は出来ることを最短で効率よく確実に行おう」



━━━━




 荷物が撤去され、裸のコンクリートにわずかに散らばった配線と部屋のすみに放置されたロッカーが名残惜しく残された廃ビル。壁には乱雑にはがされたポスターの跡が残されている。
 薄暗い中、壮絶な打撃音が響く。バカンという音が聞こえ、コンクリートの破片が床に散らばった。


 「なるほど、訳のわからぬことを口ずさむ単なる道化ではなかったということか」

 「その言葉、あなたにそのまま返すわ」


 牽制の中段突き、本命の上段突き、追撃の上段まわし蹴りを放ったビット神が余裕の表情で呟いた。私は右手でビット神の腕を下に押さえ、続いて上に動かして次の攻撃を弾き、二の腕で蹴りをガードしつつ足払いをかける。
 攻防が瞬時に切り替わる死闘が繰り広げている。二人の踏み込みの強さに、床のあちらこちらにヒビが入っていく。
 その部屋の隅から物音が聞こえるが、ビットは気づいていないかのようだった。


 「温いぞ?見た目が少女だからと加減でもしているのか?神に対して情けはいらぬ」


 ついにビット神の拳が私の胸に直撃した。衝撃の強さに私は四肢を前に付きだしたまま、天井付近の壁まで飛んでいった。私は地面が離れていくというあり得ない光景に少し驚く。その直後、背中から内蔵を抉るような衝撃がはしり、壁にほんの少しめり込んだ。
 なんとか着地した私の懐に蹴りを食らわさんとビット神が迫る。だが、突如出現したワイヤーにビット神が捕らえられた。私が殴り合の時に密かに仕掛けたワイヤートラップを作動させたのだ。ペンを操る呪詛を用いた応用技術だった。


 「じゃあ容赦なくキタナイ手を使わせて頂くわ?」

 「千年もの時を経て、随分と技術が進歩したものだ。これさえなければ仕留められていたものを」


 ビット神は手刀でワイヤーを絶ち切ると、立ち上がろうとしたルビネルの懐に今度こそ蹴りを放つ。
 私は天井を突き破ってぶっとんだらしく目の前に穴が空いておりその下にビット神が見えた。ビット神は追撃の拳を叩き込む。
 私によって開けられた天井の穴のヘリを踏み台にジャンプして、さらに私の腹を打ち、ぶっ飛ばされたルビネルが開けた次の階の天井を、また踏み台に……という離れ技を見せた。数十枚も天井をぶち抜きつつ私は拳を受けて、しまいには屋上に飛び出した。
 腹に一生残るであろう鈍痛を感じる。苦痛で顔をしかめた私の目の前に、大きく手を振りかぶったビット神が現れた。
 強烈なナックルを受けた。脳みそが頭蓋骨の壁面に叩きつけられ、一瞬飛びそうになった意識をどうにか保つ。どんどん小さくなっていくビット神を見つめつつ、受け身の体勢に入る。
 私はビット神よりはるか遠くの道路に不時着、板チョコレートのようにバキバキと割れる道路に陥没した。
 かろうじて屋上の縁にたつビット神が確認できる。


 「飛べるはずのお前が地に伏し、飛べないはずの私が遥か高みで見下ろす。皮肉なものだな」

 「フフフ、原始的な罠にハマって内心恥ずかしいんでしょう?」

 「いいや? むしろ嬉しいな。他者を憎むことで、他人を苦しめ殺める技術を自ら学んで行使する。それこそが人のあるべき姿だ。理想とも言える」


 とっさに貼ったワイヤートラップでビット神の蹴りの勢いを殺さなければ今以上のダメージを受けていた。それに、トラップで時間を稼がなければ、鬼の能力である筋肉のパンプアップを発動する暇もなかった。
 まさしくギリギリだった。例の老人によって間接的にだが命を救われた。


 「赤子は無邪気であるがゆえ残酷だ。動物を殺し、植物を摘み、手にした小さな力を用いて破壊を振り撒く。成長するにつれて教養を学ぶが、それでも人は争い、憎み、妬み、蔑む」


 後光を浴び、遥か高みから見下ろすビット。それに対して無様に地面に這いつくばり、雨風にずぶ濡れになっているルビネル。はた目から一目見てわかる絶望的な実力差。
 それでもルビネルは諦めない。


 「そして、人は根本的に利得を好む。美しい女性や芸術品に目を奪われ礼儀や秩序を損ない、人を憎み傷つけることで信頼や誠意を損なう。どんなに教育されようが、千年の時が経とうがそれは変わらない。争いこそが人の本質であり、混沌こそが世界のあるべき姿だからだ。私の望みは規律と秩序により醜く歪んだ世界をあるべき姿に帰すこと、それだけだ」

 「私の住む世界は……!」

 「〈ここ〉がその答えだ。私が土壌を食いつくし全てを支配した世界。この荒廃したビル群は戦争によって滅びた未来のカルマポリスだ。あらかじめ〈お前から見た未来〉へ誘い込んだのだ。その後〈お前から見て現在〉でなんの邪魔もなく理想の世界を創ることができた。あとは完成されたビットの世界で……お前を殺すだけだ!『未来よ、定まれ』」


 またしてもルビネルの脳内に幻影が映し出される。今度は今のルビネルから見て、ビット神から見てもかなり遠くに『幻影のルビネル』は存在していた。恐らく数百メートル先のビル壁面に着地したところだ。
 ビットは先程の戦闘でひびの入ったビルの断片(とはいえ、大きさ数十メートルはある)を持ち上げると、ルビネルの幻影に向けてぶん投げた。
 ルビネルは肝を冷やしたが、幸いにも直撃する前に幻影は消え去った。そして、幻影が消え去ると同時にビット神の投げたコンクリートの塊も消滅した。


 「……お前は、『感じているのか』?」

 「何のこと?」

 「まあいい。とぼけていても次でわかる」


 口にたまった血ヘドを吐き出すとルビネルは立ち上がった。
 水のたまりはじめた窪地を蹴り、再びビット神の元へと向かう。ボールペンを縦に高速回転させ、カッターと化したものを何本も放っていく。
 ビットはなんと、ビルの壁面を垂直に走って来た。カッターと化したペンはビットの右腕で凪ぎ払われると共に消失し、その直後にビットの左手から放たれる。私はボールペンをヘリコプターのような形で高速回転させた物を展開しバリアー代わりにして防いだ。


 「やっぱり飛び道具は効かないのね……」


 ビットが私の頭上すぐ近くに来たとき、精霊魔法式の地雷が作動する。それにより、ビットの攻撃が半テンポ遅れ隙が出来た。私はオーバーヘッドかかと落とし(命名:ルビネル)でビットを空中に蹴り飛ばしたあと、空中で横ばいになりビットの腹を踏みつけるかのように連続で蹴りを放った。
 ボールペンで背後を攻撃しながら蹴りやすい位置にビットを調整、蹴りの嵐を食らわせた。
 ダダダダダッ! と痛々しい破裂音がこだまする。


 「友の肉体をこんなに傷つけて心が痛まんのか?」

 「その子、マゾヒストだから関係ないの。むしろ御褒美よ」


 と、強気の言葉と裏腹にルビネルは内心、蹴る度にアウレイスに謝った。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。
 見切られることを見越して、最後にドロップキックで技をしめた。ビットだけではなく周囲の空間にも衝撃が伝わっていき、雨粒らが球状に押し広げられていく。ワンテンポ遅れて衝撃波に触れたビルの窓ガラスが一斉に割れた。
 忘れた頃に降ってきた雨とガラスの破片を浴びながら、私は次の攻撃に備えるために、重力を基準にして構え直す。
 一見私の優勢に見えたが、飛来した『それ』によって全てが逆転した。
 突如、視界の右端からビルの屋上が迫ってきたのだ。あり得ない光景だった。私の数メートル下は地面である。本来なら地面から延びているはずのビルが、視界の横から目に映るはずがないのだ。
 私はさっきビットが放り投げたビルの破片に打ち付けられた……。



 「まだだ、徹底して潰す」



 彼女が攻撃された地点から数百メートルの地点。
 ビットは頭から垂れる美しい赤色をした血液を拭うと、近くにあった5階建ての建築に黒い手を射し込む。みるみるうちにコンクリートと瓦礫と混ざり合い、形が人型に変形し、立派なゴーレムが出来上がった。
 ゴーレムはルビネルを押し潰したビルの破片に気がつくと、その両腕を振り上げ、足を曲げて大胆に跳躍。身長約15メートルのボディで破片を押し潰した。


 「信仰の違いで争い、憎み、拳を奮う。私より遥かに劣るちっぽけなゴミくずのような人の子よ、お前は理想的な私の世界の住民だった。そのことを誇りに思って千切れ潰れろ」


 何体ものゴーレムがルビネルを潰しにかかる。その様子を道路の真ん中でビットは眺めつつ、だめ押しと言わんばかりにおびただしい量の岩を上空に召喚する。
 召喚された馬鹿げた規模の岩なだれにより、ビットの視界に存在する建物という建物が岩に当たって砕け、崩れ去る。


 「やはり、私の思い違いだったか。ここまで派手な演技をする必要もなかったな」


 アスファルトをぶちやぶって『腕』がビットの足を掴んだ。そのまま鬼の手首の力を活用してジャイアントスウィングの流れにもっていかれた。


 「何?!」


 徐々に地面から泥だらけの状態で浮上するルビネル。雨水にさらされて徐々に元に戻っていくものの、その様子は驚きを通り越してシュールですらある。
 ビルの断片による未来攻撃を予知したルビネルは、鬼の怪力で道路をぶち破り、ボールペンで地面を掘って攻撃をかわしたのだった。


 「人対人は情報操作が基本よ? 勉強不足じゃなあい?」

 「やはり『未来を感じて』いたのか」


 ルビネルは怪力で空高くビットを投げ飛ばすと、攻撃体勢に移った。そのままチラリと背後を見る。

 
 「かかったな? それは、砂人形……」

 「わかってるわよッ! 微妙に軽いもん!」


 アウレイスと濃密な関係を持っていたルビネルはアウレイスの体重を感覚で把握していたのだった。
 またしても横から垂直に飛んできたビルに今度はしっかりと受け身をとる。空の方向へと屋上を転がり、壁面と垂直になるように飛行しつつ、奥にいるビットを捕捉する。右手を腰まで引き、左手を前につきだし正拳突きの構えに映る。
 対してビットも大きく腕を振りかぶった。迎え撃つつもりである。


 「それと、ひとつあなたは勘違いをしてる」

 「なんだ?」

 「私がその体を殴るのは憎んでいるとか争うためだとかじゃない! 愛し合うためなのよッ!!」




13



 二人の拳がぶつかった。衝撃でビルに亀裂が入り、窓ガラスが吹き飛ぶ。アスファルトに砂塵が舞い、雨が押し退けられてルビネルとビットの周囲から一時的に水が消え去った。降り注ぐ岩ですらあまりの衝撃に砕け散る。
 
 お互いに宙を舞い、私は膝をつき華麗に着地、ビットはビルに追突しクレーターを作った。ビットは今できたクレーターを砕きビル内に侵入した。私は追いかけてすぐに追撃を試みるが、ビルのどこにビットがいるのか把握できない。

 「『未来は定まり運命は決す』ルビネル、お前は見事に私を追ってきてくれたな。お陰で数十秒後のお前は今目の前で私と打ち合っている。これが、何を意味するかわかるな?」


 「しっしまっ……!」

 私がビットを数秒後に見つけた時にはもう遅かった。脳内に幻影が描き出される。
 ビットはビルの中にいた『未来のルビネル』の脇腹に強烈な掌底を打ち付けた。その瞬間、未来のビジョンは消え去った。

 「自分で戦いを誘導すれば、未来はある程度決められる。それに、私はまだこの能力の真価を見せていない」

 ルビネルはすかさずビットと組み合った。私の白い手とビットの漆のような手が噛み合う。その状態で頭突きや足技を駆使する。

 「フフフッ! どう? 宙に浮いている相手から一方的に足蹴にされるのは」

 「私は土壌の神。踏まれるのには慣れている。無駄だ」

 
 その瞬間、脇腹に強い痛みを感じ、気づいたらビルの外まで吹っ飛んでいた。あばらがイッてしまったらしく、骨折の時に感じる鈍く強い痛みが私のなかを這いずり回る。
 道路に着地して体を立て直そうとした私が見たのはビットの黒い二の腕。それがラリアットだったと気づいたのは技が決まった後だった。
 軽い脳震盪を起こしてしまい、天と地がぐらぐらと揺れる。平衡感覚を失ってしまった以上、全身に仕込まれたボールペンでも体勢を持ち直すことは叶わず、無様に受け身をとる以外、私に打つ手はなかった。
 乳白色の雨、天から召喚された岩なだれ、灰色の建築物がぐにゃぐにゃに歪んで混ざりあっている。


 『未来は決した』


 再び幻影が頭の中をよぎる。歪む視界のなかどうにか見つけた『未来のルビネル』は、ビットの数十メートル先で体をクの字に曲げながら吹っ飛んでいた。ビットは五階建てのビルの破片を『未来のルビネル』に向かって放つと、降り注ぐ岩を投げつけながら、先回りして拳を連打する。
 一旦幻影が消え去ったと思うと、さらにだめ押しと言わんばかりに神の力を発動する。


 『定められた未来よ、我が手に』


 今度はビットの真横を吹っ飛ぶ『未来のルビネル』に、腕がめり込み体が変形するほどのアッパーを食らわせた。そして、そのアッパーを受けた『ルビネル』の先には『未来のビット』が跳んでいる。
 私が立ち上がった頃にはもう既に、ビットの攻撃準備は終わっていた。私は苦し紛れに拳のラッシュを仕掛けた。もちろん、天空からの岩なだれをボールペンで掴んだり受け止めたりして処理するのも忘れない。

 「あなたに未来を支配される筋合いはない!」

 ビットの能力の特性がようやくわかってきた。
 一つ目はビットの腕に物体をストックする力。
 隙さえあればゴーレムやビルまるごとなど意味不明な飛び道具を使えるのだ。放り投げることができる範囲は現在だけではなく未来にもおよぶ。
 もうひとつが未来透視であり、約数十秒後の未来を三次元写真か如く正確に把握することができる。
 二つとも数秒の発動準備が必要であり、その隙を与えたら最後、こちらが圧倒的に不利になる。


 「理解できたようだな。私に猶予を与えることは死を意味すると。だからお前は無謀な突撃をせざるを得ない」

 「無謀かどうかは最後までわからないんじゃないの?」

 「私たちはその『最後』を透視していたのだ」


 ビットの腰の辺りまで体を浮かせ、腹と顔面に蹴りの嵐を放つ。が、何もない空間から突如として現れた石ころの散弾が私に襲いかかった。反射的に目をかばい、攻撃を緩めてしまう。
 ビットは私の足をつかむと、思いっきり地面に叩きつけた。背中に強い衝撃をうけて、肺の中の空気を全て吐き出してしまった。いっ痛苦しいッ!


 「お前がラッシュを仕掛ける十五秒前に、あらかじめ石を砕いたものを投げ込んでおいた。別に未来を透視せずとも攻撃は出来るのだ。残念だったな」


 そして、悪夢が実現する。


 防弾コートのプロテクターを容赦なく砕き、胸骨にひびを入れ、さらに背面まで衝撃が伝わる恐るべき拳が私の胸を打った。

 空中を大回転しながらぶっとびつつ空中に逃げた。少なくとも十数メートルは跳躍したビットが、追撃の裏拳を放つ。メリメリという音をたてて私は体をくの字に曲げてさらに加速した。
 さらには、何もない空中でバキバキと骨がおれるほどの強烈な衝撃が全身を襲った。無数の打撃を瞬時にして食らったらこうなりそうだ、と私は思った。
 何もない空間から飛び出してきた岩の砲弾に打ち付けられ、衝撃で軌道がそれる。ボールペンを駆使してなんとか構え直そうと思ったところを、パッと背後に現れた五階建てのビルが襲った。何度も背中に苦痛を受けつつ、まるでエレベーターになった気分で床をぶち抜き、最後に土だらけのビルの床下を眺めつつ、

 「……反撃をっ!」

 と、言った瞬間だった。
 みるみるうちに私の腹部のコートが破れ、むき出しになったプロテクターがバラバラに砕け散り、防弾スーツが破れて中の綿が消し飛び、見えた腹が拳の形に腹がへこみ、赤色に染まった。

 「ん゙ぐッ!!」

 私は空を舞った。ボロボロになったコートの断片が舞うのを横目に、もはやどうにもならず空を見上げると、ビットが笑っていた。肩まで思いっきり引いた黒い両腕が見えた。
 視界が震動し、すさまじい速度で落ちて行くのがわかる。両手で突かれたまま押し落とされているのだ。
 地面に激突した瞬間、回りに道路の破片や雨が舞い上がったのが見えた。衝撃でビットの頭の奥に見える建物にヒビが入る。
 もはや肉体強化手術をもってしても、どうにもならない激痛が私を支配した。私はとうとう耐えきれず悲鳴を上げた。


 「ぎぁぁぁぁあああっ! 痛い痛い痛いぃぃぃ!!」

 「お前たちは以前奇跡を起こした。一寸の希望でもあればお前たちは活路を見いだし全力で反撃する。だが、私は一尺の希望も与えん!」


 ビットが腕を振り上げた瞬間、私はボールペンで目を覆い、腰の辺りにあるボールペンを起動させ、ボールペンは付随されている物体のピンを引き抜く。
 瞬間、閃光と耳が裂けるほどの破裂音が鳴り響いた。


 「?! なんだっ、光と音?」


 私は動かない体を服に仕込んだボールペンで無理矢理動かし立ち上がった。
 右足を膝が出るように曲げる。正中線をずらさずに膝頭を横に倒しつつ相手の左こめかみを狙い、回し蹴りを放つ。さらに足を再び引き、おろさずにそのまま内側に回すように伸ばして、足の背面でビットの右頬を打つ。内回し蹴りを決めた私は足を引き、さらに回し蹴りを決める。
 その後も上段横蹴り、中段蹴込み、下段回し蹴り……というように私の知る限りありとあらゆる蹴り技を撃ち込み、最後にボールペンによる滑空を利用した飛び後ろ蹴りで占めた。
 ビットは私の渾身の蹴りをもろにくらい、その体を道路のコンクリートに何回も叩きつけながら吹っ飛んでいった。
 着地すると同時に、私は体の奥から湧き出るものを吐き出した。目の前に赤く大きな円が描かれ、雨に溶けていく。


 「はぁ……ぜぃ……まさか、ここでスタングレネードが役にたつとはね……。これは演技……ゲホッ……ドクターに感謝しなきゃ……」


 視界がぐらぐらする。目がチカチカして、私のからだの悲鳴を分かりやすく私に伝えてくれた。
 足から生暖かいものを感じ、出血が深刻であることを悟る。あらかじめ練習した手技で、ボールペンを用いて胴体を破れたコートで縛る。


 「うぐっ……鬼の体なんだけどなぁ……」


 折れたあばらが傷に響く。一瞬飛びそうになった意識を、なんとか自分の意思で呼び戻す。限界が近い。
 でも、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。

 「ふんっ!」

 気合いをいれつつ空からの落石をボールペンで両断する。
 私が今倒れたら私が過ごした世界が、皆の愛する世界が、ビットの支配する歪な空間へと変貌してしまう。そして何より、大好きな人をこれ以上苦しめたくない!
 私はビットとの戦いのログをとっていたノートをボールペンに乗せて、帰りのゲートへ向かわせた。私が伝えたいことは全てあのノートに書ききった。
 もう、私に未練はない。五体が砕けようとも私はあなたを止める!


 「あなたの思い通りにはさせない!」


 ボロボロになったコートをはためかせながら、ビットへの追撃に向かった。砂による目隠しを警戒して左右に動きつつ全速力でビットへ迫る。この速度であれば、ビットが未来透視の発動準備中に攻撃できる。
 ビットは真っ正面から迎え撃つつもりか、両腕を大きく振りかぶった。
 私は体に取り付けられた全てのボールペンを最適な方向に動かし、微調整する。体の細胞の一つ一つが攻撃に備える感じがする。今まで点だった技術や知識、経験が一本の線につながった。
 右握りこぶしを腰まで引き、左手を前につきだし、正拳付きの構えに入る。


 ガーナ王から継承され、

 老人によって鍛えられあげ、

 解剖鬼によって強化された肉体で、

 セレアさんの技術を用いた究極の一撃。


 これが恐らく私の人生において最後の攻撃となる。
 ビットとの距離が近づくにつれて胸が高鳴っていく。私の頭のなかに私と出会ったあらゆる人の顔が思い起こされた。走馬灯に対して私は願った。皆、私に力を貸して、と。
 願いが通じたのか呪詛の出力が上がる。ありえないほどの力が沸き上がり、ビットを体が倒せと体がたぎる。
 後少しで射程に入る! というところで、ビットは奇妙な行動に出た。自分を抱き抱えるかのようなポーズをして、そのまま消えてしまったのだ。
 自分を抱きかかえる……自分を投げる……つまり……。

 ドスッ、という音がした。

 ああ、胸の辺りが熱い……と思ったら冷たくなった。
 自分の胸から黒と赤の入り交じった禍々しい腕が延びている。手刀で私が貫かれた、と気づいたときにはもう腕が抜かれていた。胸から暖かい私の命が溢れだした。
 背後からビットの声が聞こえる。


 「一秒後に自身を投げ、攻撃を避け背後に回り込んだ。お前の言葉から思い付いたのだ。『容赦なくキタナい手』を使えば楽に勝てるとな」


 ゆっくりと前に崩れ落ちる私。膝から力が抜け、目の前が白く染まっていく。雨にうたれる感覚が消えていく。痛みが、感覚が、喪失していく。
 みんな……ごめんなさい。私……無理だった。


 「お前はよく戦った。私に攻撃を当て、怯ませた。十分だ。お前の功績はあらゆる時代に語り継いでやろう。『ビットは正真正銘の神であり、人がどんなに努力を尽くしても、決して倒せない存在であることを証明した偉大な人物』とな」


 ビットは血まみれの腕を振り上げながら高笑いを響かせてる。あいつに一発漫画みたくかっこよく必殺技を決められると、思ったんだけどな……。


 「ごめ……んね……」


 倒れる直前だった。私は前方に80℃以上倒れたありえない姿勢で、ビットに振り向くとそのまま両手を広げてビットに向かった。
 驚愕と飽きれを示したビットは、私をもう一度右腕で突き刺した。私は背中に仕込んだボールペンを全て用いて、ビットの腕をさらに深く突き刺しながら接近した。
 ビットは困惑した様子で私の腹部に左手を突き刺した。


 「なぜだ、なぜ貴様らはそうまでして戦う?! 決して勝てないとわかっていてどうして立ち向かうのだ! あの剣士といい、自分の命が惜しくないのか?!」


 口から血があふれ、目から大粒の涙が滴るのを感じる。それでも私は止まらない。
 視力を失う寸前の目でビットを見つめ微笑むと、そのほっぺたにゆっくりとキスをした。


 「ルビネル! しっかりして!!! ルビネル! 私よ! アウレイスよ!!」


 なつかしいあの子の声がする。そう、私はあなたをずっと待っていた。あなたに会うために体を、命を捨てて、来たの。
 口づけによって呼び戻されたアウリィは私の体からビットの腕を引き抜くと、とっさに能力を発動した。私の体に刻まれた絶望的な傷が一瞬にして塞がった。

 「ルビネル! 後は頼んだわよ……」

 「ええ! 貴方を必ず連れて帰る」

 私は身を半歩ほど引き、再び正拳突きの構えをとる。今度は外さないっ!
 必殺の一撃がビットの胸部を打った。衝撃波がアスファルトをめくりながら広がっていき、周囲の建物を外側から半壊させていく。

 「グッ! ……なっなぜだ。なぜ私はお前に止めをさせない」

 「愛という感情の持つ力をしらないあなたに、私は負けない!」

 私は呪詛を込めた右足を思いっきりビットに差し込んだ。そして、呪詛を放出しつつ蹴りあげる。


 「ぬぅぅぅゔゔ! 出さん……今度こそ絶対に解放するわけには……」


 空中にビットが舞い上がった。フルスピードでビットを追いかけ、そして追い付く。


 「私の攻めを受けきってみなさい!!」


 私は怯んだビットを力の限り抱きしめ、口内にのなかに舌をねじ込み蹂躙する。アウリィの体が快楽に身を震わせた時、黒い影が分離した。


 「ばっばかな、こんな、こんなわけもわからぬ攻撃に」


 浅黒い肌、長く尖った耳、その耳の後ろから後方に向かって伸びる三対の角。間違いなくあのとき一度葬り去った邪神ビットだった。
 私はばっとアウリィの体を解放すると、同時に邪神ビットへ無数のボールペンの芯を投げつけた。飛んでいる途中で強烈に縦回転してカッターと化す
 さっき放ったときは全て黒い手に反射されたが、邪神ビットは分離の反動で動けなくなっているはず。
 それでも邪神ビットは腕を振りかぶり能力を発動しようとした。私はそんな彼を空中で何回転もして助走をつけた全力のかかとおとしで叩き潰した。さらにボールペンを両手に握りビットを撃つ。
 

 「こっ、ここまで来て! お前さえ倒せば純粋なる負の世界が……」


 打撃により大きく後退した邪神ビット。ここぞとばかりにボールペンの芯を両手に握る私。
 鬼の腕力でペンの芯をぶん投げると一瞬にして呪詛の範囲外に飛んでいくが、使い捨てと割りきりありったけ飛ばす。
 ビットの手が、足が、ボールペンの芯によって切り裂かれていく。そこに数メートル助走をつけた渾身の打撃を何度も何度も当てる。鬼のゴムのように弾性に富んだ筋肉から産み出される打撃が、呪詛によって勢いを増し、激烈な衝撃をビットに与える。
 窒息寸前まで攻撃を続けた。用意したボールペンの芯と本体は体を支えるためのものを除いて全て使いきった。拳は自分の打撃に耐えきれず血まみれになった。

 「さようなら、ビット!!」

 私は最後に二本残ったボールペンを握りしめる。
 切り裂かれ撃たれ、満身創痍の邪神ビットに手に持ったボールペンを突き刺す。そのまま全力で突き込み邪神ビットの胸を私の腕で貫通させる。
 すかさず腕を引き抜くと、邪神ビットと距離を取り、落下中のアウリィをお姫様抱っこした。

 ずっと降り続いていた乳白色の雨が止んだ。嵐も止まり、分厚い雲がまるで解けかけの雪のように消えていく。顔を出した太陽の光が廃都市全体を照した。ビットの力がとうとう尽きたのだ。
 邪神ビットは今までとはうって変わって静かな声で語りかけてきた。


 「遥か昔……、私もお前たちと同じく……純心を持っていた。いつからだろうか、邪心にとりつかれ……正の力を捨て去ったのは。お前たちとの戦いで感じたあの光……」


 岩が風化するかのように邪神の肉体が崩れていく。


 「私も……出来ることなら……ずっと……純心のままでいたかった……」


 後悔の言葉と共に、世界を支配しようとした邪神は消え去った。
 そして、うっすらとアウリィが目を開けた


 「ルビ……ネル? 私たち、勝ったの?」

 「世界を救っちゃったみたいね。てっきり私、死んじゃうかと思ってたんだけど」


 冗談で言った言葉に、アウリィはギラリと瞳を光らせた。


 「私が死なせない」


 キリッとしたアウリィの顔に思わずドキリとしてしまった。頬が火照るのを感じる。きっと今の私の顔はアルビダなのにも関わらず真っ赤だろう。


 「うん、……本当にありがとうね、アウリィ」


 私は額にキスをすると、ゆっくりと地面に着地した。アウリィがなにかに気づいたらしく、目の前のビルを指び指した。ビルとはいえさっきまでの戦いのせいで前面が倒壊し、中が丸見えになっているが。


 「ビットにとりつかれていたからわかる。あそこに、私たちの世界へと通じる扉がある。……数ヵ月くらい誤差があるかも知れないけれど」

 「本当に?」

 「私を信じて、ルビネル」


 彼女の額から垂れる銀色に輝く髪の毛は、穢れが抜け落ち透き通った色だった。手足は華奢で、白い肌が陽の光で艶やかに輝く。もう彼女に邪神はとりついていない。


 「うん。いつまでも、どこまでも信じてるよ。アウリィ」




……。




『私は晴れ晴れとした気持ちです。まるで、一点の曇りもない晴天がどこ待ても続くよう。

私が帰らないことをどうか、赦してください。

ことをなし得なければ、愛する人の手によって、さらに多くの人がこの世を去ってしまいます。だから私は行くのです。

遺品は全て売ってお金にして父と母に渡して下さい。この先十年も二十年も親を悲しませるのは辛いですから。

書くことはまだまだありますが、思い付くことは感謝の言葉だけ。父、母、従姉、私を支えてくれた友達や先生、最後までついてくれた仲間。

私がみんなからもらったものに対して、月並みの感謝の言葉では到底言い表せないけれど━━ただ、ただ『ありがとう』。一言に尽きます。


ありがとう


ありがとう』




 紅の手帳。ルビネルの遺書。空色の花畑。紅の幻覚。一本歩くごとにバキバキと美しい花が折れ、散る。コートを揺らめかせ、私は幽霊のように花畑をさまよっていた。
 ルビネルを一ヶ月ばかり待ったが、彼女はついに帰ってくることはなかった。この世がビットの手に落ちていはいない所を見るに、何らかの手段でビットを無力化したらしい。
 ルビネルの余命はあの時点で数日だったはず。私が手を加えていない以上、多臓器不全……いわゆる老衰により死んでしまったはずだ。
 そうでなくても心臓を傷つけられた以上数日も持つまい。

 「だが、現にこうして私がのうのうと生きているのは彼女のお陰か……」


 私が違和感に気づいたのは、花畑から森へと移動した時だった。背後から何やら光が漏れていた。私が振り向くと、先程までいた花畑に再び光の扉が現れていた。


 「何がどうなっている?」


 いるはずのない人がそこにいた。胸部と腹部に大きな穴の空いたボロボロのコートに、ずぶ濡れの黒髪を持つ忘れもしないあの子が。誰もが諦めていたあの子が。
 彼女は銀色の髪の毛を持つ少女をお姫様抱っこして、不敵に微笑んでいる。
 幻覚かと思いマスクの目玉の部分をごしごしと擦る。



 「こっ、これは……まさか!」

 「フッ……フッ……フッ! ただいま、ドクター」


 ルビネルは空色の花畑に抱っこしていたアウレイスをおろした。すやすやと寝息をたてている。


 「私は前にキスビットでカルマポリスの呪詛を独自に扱うとされる妖怪の調査をしていたんだけど、妖怪の正体は私自身だった……なんて。タニカワ教授にどう説明すればいいのかしら」

 「私よりもいい相談相手なら沢山いるぞ?エウス村長にガーナ、老人もいいな。柔軟な発想が必要ならセレアに聞くといい。みんな喜んで……本当に喜んで……教えてくれるだろう」


 自分の声が潤んでいた。マスクの中が涙で濡れている。私はあの世へ人を送り出すのには慣れていても、帰ってくる人を迎えるのには慣れてないらしい。


 「みんなのもとに案内してくれるかしら?あと、タオルない?」

 「よろこんで。みんな、謝辞も含めて伝えたいことが山ほどあるはずだ。私を含めてな。因みにタオルは用意していない」

 「楽しみにしているわ。……タオルも」


 ルビネルは濡れて艶々になっている髪の毛に手を通してから、私の腕を指差した。


 「ところでそれは……?」

 「ん? ああ。別に」


 私は無意識のうちに腕に巻いた空色の花の冠を隠した。


 「もしかして、私にプレゼントするために?」

 「止めた。泣きながら花の冠を渡すなど恥ずかしくてたまらん」


 私はアウレイスの頭にそっと冠を乗せた。


 「似合っているじゃないか。銀の髪に空色の冠。天使の寝顔だな」

 「フッフッ……変なことをしたらボールペンでグサリよ?」

 「おおー怖い怖い」


 私は大袈裟に離れると、柄にもなく大声で笑った。ルビネルはそんな私を幸せそうな微笑みを浮かべて見つめていた。


 「さあ、行こうか。君たちを待っている人がたくさんいる」

 「ええ。帰りましょう。私たちの世界へ」