タニカワ教授とセレア 起
わらわはひな祭りの後に学校に転校してきた。クラスにはもうすでに仲良しグループが出来上がっていた。しかも、わらわはまともな生活を送ってきていなかったから、どうやって友達を作ればいいのかもわからなかった。
休み時間、何もすることがなかったわらわは自分の机で突っ伏していた。孤児院も学校も辛くてゆううつで、わらわに今を生きる理由なぞなかった。
「こんにちは。えっと......セレアさんだっけ」
そんな、わらわに唯一声をかけてくれたのが、あやつだった。わらわが机から顔をあげると、白髪混じりの男の先生がわらわを見下ろしていた。その顔には優しさと、幸の薄さがにじみ出ていた。
「タニカワ教授? わらわ、何かしでかしたか?」
「いや、体調が悪くないか心配になってね」
「ああ。わらわは眠いだけじゃ」
わらわはあやつを軽くあしらおうとした。面倒事に巻き込まれるのはもうごめんだった。
「セレアさんは学校にもう馴染めた? 友達は?」
「まあ、な。トモダチもわりとおるんじゃぞ」
「......今日の放課後は空いてるかい?」
後から知ったことだが、あやつは大学から来た特別講師で、別にわらわのことなど気にかけなくてもいい立場だった。その辺に転がる石ころのように扱ってもよかったのに。あやつはどうしようもなく困っている生徒を放っておけないタチなのだ。
だからこそ、タニカワ教授はわざわざ別校舎にある自身の研究室まで、わらわを呼び出したのだ。
「席について。今、お茶入れてくるから」
椅子に座ると胸から下が机に隠れてしまった。下手したら12歳程度の身長しかない自分を恨んだ。
研究室は部屋の真ん中に長机があって、その回りを本棚が埋め尽くしていた。難しそうな表題ばかりだった。
「はい。どうぞ」
渡されたお茶を一口のんだ。胸があたたかくなった気がした。
タニカワ教授は反対側に座ると、まるで友達に世間話でもするかのようなノリで語りかけてきた。
「異国でみたんだけど、春には桜というきれいな花があってね。大きな木の枝一本一本に薄紅色の花が咲くんだ。これが、その押し花なんだけど」
「あ、かわいい」
きれいなピンク色の花びらが、栞に封じ込まれていた。思わず伸ばしたわらわの手のひらに栞がおかれた。その時少しだけあやつの指がわらわに触れた。
「いい笑顔だ」
「あ......」
「一日数分でいいから、鏡の前で笑う練習をしてみて。するのとしないのだと心持ちが大分違うから」
「そんな練習しなくても笑えるのじゃ。わらわをなめるでない」
わらわはタニカワ教授をにらんだ。クラスの大多数はしょっちゅう笑っている。そんな誰にでもできることがわらわにはできない。そんなのは認めたくなかった。
タニカワ教授はそんなわらわの様子をみて、表情を曇らせた。
「大人は一日14回しか笑わない。でも子供は400回も笑うと言われている。君は、一日に何回笑ってる?」
ことばが出なかった。「数えきれないほど笑っている」、と言うことができなかった。
「子供は笑うことに抵抗がない。だから笑うべき時に自然に笑える。でも、色んな経験を積むにつれて、どのタイミングで笑えばいいのか頭で考えるようになるんだ。そして無意識のうちに気づくんだ。笑わない方が楽だってことに。......まあ、これは私の体験談だけどね」
心を読まれたようでドキドキしてきた。穏やかな声がわらわの心の隙間に染み込んでいく。
「人は自分から笑おうとしない限り、笑顔を作ることなんてできない。そのうち、笑顔以外の表情も忘れていく。喜ぶことも、怒ることも、楽しむことも、悲しむことも。全く笑わない人とセレアは関わりたいと思う?」
「いや、思わんな......」
呟いてから気づいた。わらわは友達がいると言った。でも、わらわは長いことわらっていないともさっき言ってしまった。
「セレアさん、まずは笑顔から。友達を作ることを考えるのはまだ先でいい。とりあえず、楽しいと思ったときに笑えるよう、練習してみよう。それだけで気の持ちようも変わってくる」
「じゃが、どうやって練習すれば......」
いつのまにか一人で悩み、一人で物事を解決しようとする癖がついていた。人にすがるのはいつ以来だろうか。
「毎朝鏡に向かって作り笑いをすればいい。もし、それが出来ないのであれば......その桜の花びらが君を助けてくれるはずだよ。栞はセレアさんにあげるよ」
その優しさが心に染みた。
「ありがとう、タニカワ教授」
「呼び捨てでいいよ。セレアさん」
それからというもの、何度もタニカワ教授に会いに行った。その度にタニカワはあるときは教師として、またある時は親友のように、またあるときは親のように、わらわと話してくれた。
そのうち、わらわは相談しにタニカワに会いに行くのではなく、タニカワに会うために悩みを作るようになっていった。
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